今季、ブルックリン・ネッツへ移籍したケビン・デュラントは長年着用していた背番号35に替えて7番を選んだ。少年時代のコーチが35歳の時に殺害されたのを偲んでつけていた番号。それを変えたのは、新天地に懸ける意気込みの強さの表われだろう。
デュラントが"捨てた"格好の35番は、NBAではポピュラーな番号とは言えない。今季この番号でプレーしたのは6人だけ。欠番選手は3人いるがいずれもスーパースターとは言い難く、すぐに名前を挙げられるファンは少ないだろう。
そもそも35番は、大きな期待を背負ってプロ入りしながら、挫折した選手の番号というイメージが強い。その最たる例がラルー・マーティン。1972年にドラフト1位でポートランド・トレイルブレイザーズに入団したマーティンだったが、注目の1年目は平均4.4点、4.6リバウンド。その後もパッとせず、結局4年プレーしただけでNBAから姿を消し、84年2位指名のサム・ブーイ、08年1位指名のグレッグ・オーデンに至る"ブレイザーズの失敗センター"の元祖となってしまった。
期待外れという点ではダニー・フェリーも同様だ。デューク大で35番が欠番になるほどの大活躍を見せ、89年のドラフト2位でロサンゼルス・クリッパーズに指名されたが、入団を拒否してイタリアへ。1年後クリーブランド・キャバリアーズにトレードされてNBA入りするも、スターターにすらなれないままキャリアを重ねた。6年目の95-96シーズンに平均13.3点を記録したのが自己ベストで、脇役としてはそれなりでも、当初の期待からすれば物足りなかった。
84年のロサンゼルス五輪で、マイケル・ジョーダンらとともに金メダルを手にしたジョー・クラインも、85年のドラフト6位でサクラメント・キングス入りした後、気がつけば控えセンターに落ち着いていた。
近年ではアダム・モリソンが記憶に新しい。ゴンザガ大時代は抜群のシュート力で得点を量産。ラリー・バードの再来と言われ、06年のドラフト3位でシャーロット・ボブキャッツ(現ホーネッツ)に入団する。しかし、運動能力の低さと守備の弱さがネックとなり、3年目の途中でロサンゼルス・レイカーズにトレード。その後、海外に渡ってNBA復帰を目指すも叶わず、母校のコーチとなった。
デュラントが"捨てた"格好の35番は、NBAではポピュラーな番号とは言えない。今季この番号でプレーしたのは6人だけ。欠番選手は3人いるがいずれもスーパースターとは言い難く、すぐに名前を挙げられるファンは少ないだろう。
そもそも35番は、大きな期待を背負ってプロ入りしながら、挫折した選手の番号というイメージが強い。その最たる例がラルー・マーティン。1972年にドラフト1位でポートランド・トレイルブレイザーズに入団したマーティンだったが、注目の1年目は平均4.4点、4.6リバウンド。その後もパッとせず、結局4年プレーしただけでNBAから姿を消し、84年2位指名のサム・ブーイ、08年1位指名のグレッグ・オーデンに至る"ブレイザーズの失敗センター"の元祖となってしまった。
期待外れという点ではダニー・フェリーも同様だ。デューク大で35番が欠番になるほどの大活躍を見せ、89年のドラフト2位でロサンゼルス・クリッパーズに指名されたが、入団を拒否してイタリアへ。1年後クリーブランド・キャバリアーズにトレードされてNBA入りするも、スターターにすらなれないままキャリアを重ねた。6年目の95-96シーズンに平均13.3点を記録したのが自己ベストで、脇役としてはそれなりでも、当初の期待からすれば物足りなかった。
84年のロサンゼルス五輪で、マイケル・ジョーダンらとともに金メダルを手にしたジョー・クラインも、85年のドラフト6位でサクラメント・キングス入りした後、気がつけば控えセンターに落ち着いていた。
近年ではアダム・モリソンが記憶に新しい。ゴンザガ大時代は抜群のシュート力で得点を量産。ラリー・バードの再来と言われ、06年のドラフト3位でシャーロット・ボブキャッツ(現ホーネッツ)に入団する。しかし、運動能力の低さと守備の弱さがネックとなり、3年目の途中でロサンゼルス・レイカーズにトレード。その後、海外に渡ってNBA復帰を目指すも叶わず、母校のコーチとなった。