マイケル・ジョーダンを中心に、シカゴ・ブルズが最後に優勝した1997-98シーズンに密着して撮影したドキュメンタリー10部作『ザ・ラストダンス』は大きな反響を呼んだ。ブルズ2度目の3連覇(1996~98)のキーパーソンの1人だったデニス・ロッドマンは、1995年10月にサンアントニオ・スパーズからトレードで加入したが、自由奔放な振る舞いはジョーダン&スコッティ・ピッペンの2枚看板を擁したブルズでも変わらなかった。スパーズ時代にコンビを組んだ“提督”デビッド・ロビンソンが、悪童ロッドマンを語っている。
ロッドマンは名将チャック・デイリーに見いだされ、“バッドボーイズ”と呼ばれたデトロイト・ピストンズでリバウンドと守備のスペシャリストとして才能が開花。1989、90年の連覇を経験し、自身は89年から5年連続でオールディフェンシブ1stチーム選出、90、91年には2年連続で最優秀守備選手賞に輝いた。
しかし、平均18.3リバウンドで2年連続個人タイトルを手にした92-93シーズンは、恩師チャック・デイリーがチームを去ったこともあって孤独感を抱えていた。突如姿を消し、ホームアリーナの駐車場で銃を持って車の中にいるところを発見されるという事件が引き金となり、シーズン終了後にスパーズへ放出された。
ロッドマンは加入1年目の93-94シーズンに79試合に出場して平均17.3リバウンド、翌シーズンは49試合で平均16.8リバウンドと、コート上では自分の役割をこなした。ただその一方で、タトゥーや奇抜なヘアカラーで注目を浴びるなど、徐々に問題児色が濃くなっていったのもこの時期だ。94-95シーズンのエキシビションゲームでは、退場処分となった後にボブ・ヒル・ヘッドコーチ(HC)に氷の袋を投げつける傍若無人ぶり。バイクの事故で肩を負傷して戦列を離れ、試合やチームイベントに遅刻して出場停止処分を食らったこともあった。
そして、決定的な出来事となったのは95年カンファレンス準決勝ロサンゼルス・レイカーズとの第3戦だ。試合中にもかかわらずロッドマンはシューズを脱いで床に座り、タイムアウトの話し合いに参加せず、代わりにゲームを傍観するという行動に出た。ヒルHCはロッドマンをコートに戻さず、当時ゼネラルマネージャーだったグレッグ・ポポビッチ(現スパーズHC)は1試合の出場停止処分を科した。エースのロビンソンは『ニューヨーク・タイムズ』で「彼に戻ってきてほしい。ただし、適切な心構えでね」と語ったが、結局ロッドマンが改心することはなく、スパーズでのキャリアはわずか2年で終わりを告げた。
ロッドマンは名将チャック・デイリーに見いだされ、“バッドボーイズ”と呼ばれたデトロイト・ピストンズでリバウンドと守備のスペシャリストとして才能が開花。1989、90年の連覇を経験し、自身は89年から5年連続でオールディフェンシブ1stチーム選出、90、91年には2年連続で最優秀守備選手賞に輝いた。
しかし、平均18.3リバウンドで2年連続個人タイトルを手にした92-93シーズンは、恩師チャック・デイリーがチームを去ったこともあって孤独感を抱えていた。突如姿を消し、ホームアリーナの駐車場で銃を持って車の中にいるところを発見されるという事件が引き金となり、シーズン終了後にスパーズへ放出された。
ロッドマンは加入1年目の93-94シーズンに79試合に出場して平均17.3リバウンド、翌シーズンは49試合で平均16.8リバウンドと、コート上では自分の役割をこなした。ただその一方で、タトゥーや奇抜なヘアカラーで注目を浴びるなど、徐々に問題児色が濃くなっていったのもこの時期だ。94-95シーズンのエキシビションゲームでは、退場処分となった後にボブ・ヒル・ヘッドコーチ(HC)に氷の袋を投げつける傍若無人ぶり。バイクの事故で肩を負傷して戦列を離れ、試合やチームイベントに遅刻して出場停止処分を食らったこともあった。
そして、決定的な出来事となったのは95年カンファレンス準決勝ロサンゼルス・レイカーズとの第3戦だ。試合中にもかかわらずロッドマンはシューズを脱いで床に座り、タイムアウトの話し合いに参加せず、代わりにゲームを傍観するという行動に出た。ヒルHCはロッドマンをコートに戻さず、当時ゼネラルマネージャーだったグレッグ・ポポビッチ(現スパーズHC)は1試合の出場停止処分を科した。エースのロビンソンは『ニューヨーク・タイムズ』で「彼に戻ってきてほしい。ただし、適切な心構えでね」と語ったが、結局ロッドマンが改心することはなく、スパーズでのキャリアはわずか2年で終わりを告げた。