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【名作シューズ列伝】ピッペンモデルの“廉価版”。レジー・ミラー着用の「NIKE AIR MUCH UPTEMPO」のお話

西塚克之

2020.07.15

ミラーは94年の世界選手権(写真)に続いて、アメリカ代表に選出。五輪ではチーム3位の平均11.4点をあげて金メダル獲得に貢献した。(C)Getty Images

 人に歴史あり。バスケにスーパースターあり。スーパースターにシグネチャーモデルあり。シグネチャーモデルにBOXあり! 

 ドリームチームIII(1996年アトランタ五輪)のシグネチャーモデル第2弾、本編18箱目は、レジー・ミラーが着用したオリンピックモデル「NIKE AIR MUCH UPTEMPO」のお話です。

 レジー・ミラーは、兄のダレルがMLBプレーヤー。姉のシェリルがバスケットボールのスター選手、妹のタミーがバレーボール選手というスポーツ一家で育ちました。しかし、ミラーは生まれつき脚が曲がっていたため少年時代は満足に歩けず、ギブスによる矯正でやっと歩けるようになったといいます。

 そんなミラー少年が没頭したのがバスケットボール。2歳年上の姉シェリルに何度も勝負を挑みましたが、高校時代まで勝つことはできませんでした。

 姉の英才教育のおかげで、大学は地元の名門UCLAへ進学。2年時から主力を務め、3、4年時には平均20点超えを記録し、4年間でカリーム・アブドゥル・ジャバーに次ぐ歴代2位の2095点を稼ぎました。
 
 87年のドラフトでは1巡目11位でインディアナ・ペイサーズに指名。201㎝のシューティングガードはシュート力に定評があり、3年目の90年には平均24.6点、フィールドゴール成功率51.4%を記録するなど、順調に成長を続けていました。

 彼は単なるシューターではなく、勝負所で真価を発揮するクラッチシューターでもありました。ニューヨーク・ニックスと対戦した94年のプレーオフでは、第4クォーターだけで25得点。さらに翌年のニックス戦でも第4クォーター残り16秒から8得点を叩き出し、逆転勝利の原動力に。ゲーム終盤「ゾーン」に入ったオフェンスは、"ミラータイム"と呼ばれ、相手チームとファンに恐れられました。

 そんな活躍が認められ、94年に世界選手権(現ワールドカップ)に続き、96年のアトランタオリンピックのアメリカ代表メンバーに選出されました。