残した数字だけで判断すれば、平凡な選手としか思えないかもしれない。では、そんなネイト・マクミランが、多くのスタープレーヤーを差し置き、かつてのシアトル・スーパーソニックスで“ミスター”の称号を得たのはなぜか──。
自己主張という言葉とは無縁で、何よりもチームの勝利を優先させた男は、シアトルのファンにとって唯一無二の存在であったのだ。
現在のオクラホマシティ・サンダーは、2008年まではシアトルを本拠とするスーパーソニックスという球団名だった。1979年にリーグ制覇、96年にもファイナル進出を果たしたソニックスからは、デニス・ジョンソン、ジャック・シクマ、ゲイリー・ペイトン、ショーン・ケンプら数多くの名選手が輩出した。
しかしながら、そうしたスターたちを差し置いて“ミスター・ソニック”と呼ばれていたのは、通算平均得点がたったの5.9点というネイト・マクミランだった。キャリアの大半を控えPGとして過ごしたマクミランは、いかにしてそのような地位を確立したのだろうか。
■シアトルへと発つ前の晩はフィアンセと泣き明かして…
マクミランは1964年8月3日、ノースカロライナ州ローリーのプロジェクト(低所得者用住宅)に生まれる。父親の顔は知らなかったが、仕事熱心な母と面倒見の良い兄ランディのおかげで、真っ直ぐな性格の少年に育った。
学生バスケットボールがとても盛んな土地柄であり、マクミランの周りにも常にこのスポーツがあった。贔屓のチームはノースカロライナ州立大学(以下NCSU)。しかし、高校卒業時にはそのNCSUだけでなく、ほかの有力大学からの誘いもほとんどなかったため、彼は短大へ進学する。
ところが、その後に身長が4インチ(約10㎝)伸びると、強豪校から次々と勧誘の声が掛かる。NCSUもそのひとつだった。「ずっと好きな学校だったのに、高校の時はまるで関心を持ってもらえなくて、正直、腹を立てていたんだ。でも実際に来てくれないかって言われたら、そんな感情なんてどこかへ飛んで行ってしまったよ」。
常にチームを第一に考え、努力を惜しまないマクミランは、すぐにリーダーとして周囲から認められた。「選手たちが皆、マクミランくらい一所懸命だったら、どんな相手にも勝てる。彼はNBAでも10年以上プレーできる選手になるはずだ」。ヘッドコーチ(以下HC)のジム・バルバノの高評価に、一番驚いたのがマクミラン本人だった。なぜなら当時の彼は、自分がNBAでも通用するなどと、考えたことすらなかったからだ。
自己主張という言葉とは無縁で、何よりもチームの勝利を優先させた男は、シアトルのファンにとって唯一無二の存在であったのだ。
現在のオクラホマシティ・サンダーは、2008年まではシアトルを本拠とするスーパーソニックスという球団名だった。1979年にリーグ制覇、96年にもファイナル進出を果たしたソニックスからは、デニス・ジョンソン、ジャック・シクマ、ゲイリー・ペイトン、ショーン・ケンプら数多くの名選手が輩出した。
しかしながら、そうしたスターたちを差し置いて“ミスター・ソニック”と呼ばれていたのは、通算平均得点がたったの5.9点というネイト・マクミランだった。キャリアの大半を控えPGとして過ごしたマクミランは、いかにしてそのような地位を確立したのだろうか。
■シアトルへと発つ前の晩はフィアンセと泣き明かして…
マクミランは1964年8月3日、ノースカロライナ州ローリーのプロジェクト(低所得者用住宅)に生まれる。父親の顔は知らなかったが、仕事熱心な母と面倒見の良い兄ランディのおかげで、真っ直ぐな性格の少年に育った。
学生バスケットボールがとても盛んな土地柄であり、マクミランの周りにも常にこのスポーツがあった。贔屓のチームはノースカロライナ州立大学(以下NCSU)。しかし、高校卒業時にはそのNCSUだけでなく、ほかの有力大学からの誘いもほとんどなかったため、彼は短大へ進学する。
ところが、その後に身長が4インチ(約10㎝)伸びると、強豪校から次々と勧誘の声が掛かる。NCSUもそのひとつだった。「ずっと好きな学校だったのに、高校の時はまるで関心を持ってもらえなくて、正直、腹を立てていたんだ。でも実際に来てくれないかって言われたら、そんな感情なんてどこかへ飛んで行ってしまったよ」。
常にチームを第一に考え、努力を惜しまないマクミランは、すぐにリーダーとして周囲から認められた。「選手たちが皆、マクミランくらい一所懸命だったら、どんな相手にも勝てる。彼はNBAでも10年以上プレーできる選手になるはずだ」。ヘッドコーチ(以下HC)のジム・バルバノの高評価に、一番驚いたのがマクミラン本人だった。なぜなら当時の彼は、自分がNBAでも通用するなどと、考えたことすらなかったからだ。