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モーニング&ハーダウェイーー数々の苦難を乗り越え、戦い続けたヒートのタフガイ・コンビ【NBAデュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2022.05.18

モーニング(右)は1995年、ハーダウェイ(左)は96年にヒートに加入。2人のオールスター選手獲得でチームは徐々に成績を伸ばしていった。(C)Getty Images

■鮮烈なNBAデビューから一転チームを追われる不運

 2000年のシドニー・オリンピック。アメリカの男子バスケットボールチームは、苦戦しながらも全勝で優勝した。喜びに沸くチームの中には、マイアミ・ヒートのチームメイト同士である、アロンゾ・モーニングとティム・ハーダウェイの顔もあった。

 シドニーに向かう前、一緒にトレーニングを積んだ甲斐あって、2人は申し分のない活躍を見せた。ハーダウェイはチーム最年長らしくリーダーシップを発揮し、モーニングはチームで唯一のセンターとして奮闘した。

 金メダルを手に凱旋帰国した2週間後に悲劇が待ち受けていようとは、この時の2人には思いもよらなかったであろう。

 初代ドリームチームが結成された1992年に比べると、この頃には新鮮さやインパクトこそ薄れていた。しかしそれでも、ドリームチームに選ばれることは大きな名誉であった。とりわけ、ハーダウェイにとっては感慨深いものがあった。

 ハーダウェイは89年ドラフト14位で、ゴールデンステイト・ウォリアーズに入団。平均14.7点、8.7アシストはリーグ9位という堂々たる活躍だった。同じ年にデイビッド・ロビンソンさえいなければ、間違いなく新人王になっていたはずだ。
 
 成績もさることながら、周囲を唸らせたのはドリブルの見事さだった。「彼は魔術師のようにボールを操れる。まるで手の中にボールがないようにさえ思えるんだ」(当時のウォリアーズHCドン・ネルソン)。特に左右の手で交互にドリブルし、瞬時にディフェンダーを抜き去るクロスオーバードリブルは、わかっていてもディフェンスできないと評された。

 この"キラークロスオーバー"と、素早いモーションから繰り出されるロングシュートを武器に、ハーダウェイは着実にスターへの階段を上っていった。2年目の90-91シーズンには、平均9.7アシスト(リーグ5位)、2.61スティール(同4位)と2部門でトップ5入りを果たし、得点でも22.9点のハイアベレージをマーク。

 ミッチ・リッチモンド (23.9点)、クリス・マリン(25.7点)とともに得点を稼ぎまくり、"RUN-TMC"の呼び名で人気を博した。当時大人気だった3人組ラッパーのRUN‐DMCにひっかけ、3人のファーストネームの頭文字を組み合わせて作ったこのニックネームは、コートを縦横無尽に走り回る彼らのプレースタイルにもビタリとはまる秀逸なネーミングだった。

 93年10月には、翌年に開催される世界選手権のメンバー"ドリームチーム2"にも選出された。ところが発表の2週間後、練習中に左ヒザをひねり、前十字靭帯断裂の重傷を負ってしまう。選手生命を左右しかねないほどの大ケガで、ドリームチームを辞退しただけでなく、93-94シーズンを全休しなくてはならなくなった。
 
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208センチとセンターとして小柄なモーニングだったが…