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ドクターJ&マローン――1960~70年代に存在したNBAのライバルリーグ、ABAスターの共闘物語【デュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2022.11.28

アービング(右)とマローン(左)は今はなき、70年代のABAを牽引。のちにNBAで共闘を果たした。(C)Getty Images

■ABAが誇る花形スター、ジュリアス・アービング

 オールスターウィークエンドの華であるスラムダンク・コンテスト、プレーオフなどで数々の劇的なシーンを生み出してきた3ポイントシュート。いずれも現在のNBAになくてはならないものだが、そのルーツはNBAではなく、1960~70年代に9年間だけ存在したライバルリーグのABAにある。

 スラムダンク・コンテストは76年のABAオールスターで初めて開催され、3ポイントルールは、79年にNBAが採用するより11年も前の68年に、ABAが導入している。

 ABAは数多くの優れた選手もNBAに送り出した。なかでも別格の存在だったのが、ドクターJことジュリアス・アービングと、モーゼス・マローンである。ABA出身者でNBAのMVPを受賞しているのは、この2人だけだ。そしてその2人が初めてチームメイトとなったシーズンに、彼らはチャンピオンリングを獲得した。

 彼らは単に優れた選手だっただけではなく、プロバスケットボールの革命児だった。ケビン・ガーネットも、コビー・ブライアントも、そしてマイケル・ジョーダンさえも、彼らが切り拓いた道を辿ってきた。今のNBAの繁栄も、この2人がいなければあり得なかったのだ。
 
 ドクターJは、16年のプロ生活で通算3万26点を記録している。キャリア通算3万得点に到達したのは、ウィルト・チェンバレン、カリーム・アブドゥル・ジャバーに次いで史3人目(当時)であり、いかに優れたスコアラーだったかを物語っている。だがそれ以上に、ドクターJは史上稀に見るダンクマスターとして名を馳せた。彼のダンクは迫力、優雅さ、美しさのすべてにおいて、先達をはるかに凌駕するものであった。

 その秘訣は、驚異的な滞空時間の長さにある。「ジャンプした後、そのままダンクに行くか、あるいはオープンの選手にパスを出すか、私には決断する時間が十分あった」と自身が語っているように、彼は重力の法則に逆らうことができるかのようだった。

 ドクターJはマサチューセッツ大を2年で中退し、71年にABAのバージニア・スクワイアーズと契約。ボールを自在に操る大きな手や抜群のジャンプ力を生かし、シュート、リバウンド、ブロックと八面六臂の活躍を演じた。1年目から平均27.3点、15.7リバウンドの好成績を残したが、そのプレーが与えるインパクトの強烈さは、数字では測り切れなかった。
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ABAの頂点を極めたドクターJと、高校で頭角を現わしたマローン