マイケル・ジョーダン、ドミニク・ウィルキンスといった史上屈指のスラムダンカーに並ぶ、2度のコンテスト優勝――。1990年代前半、若き日のハロルド・マイナーは、将来を嘱望されるプレーヤーだった。だが、スラムダンク王という勲章や"ベビー・ジョーダン"の称号が重過ぎる十字架となり、彼はわずか4シーズンでNBAを去ることになる――。
■NBAから消えた元スラムダンク王
マイケル・ジョーダンやドミニク・ウィルキンスといった稀代のダンクアーティストが、己の意地とプライドを賭けて競い合った1980年代後半のスラムダンク・コンテスト。当時の映像をいま改めて見ると、参加選手の気合の入り方や試技の密度、そして観客の熱気には凄まじいものがあり、殊のほかスペクタクルな一大イベントだったことがよくわかる。
しかしその後、スター選手の出場回避やバリエーションのネタ切れなどにより、ひと頃の話題性や盛り上がりは年を追うごとに薄まっていった。それでも、リーグ№1ダンカー決定戦から若手の登竜門的なイベントへの段階的移行、フォーマットやレギュレーションの度重なる変更、コンテスト自体の休止という荒業等を経て、当たり外れのある年を繰り返しつつ現在に至っている。
ファンの多くは満足感と失望感を味わいながら、それでも毎年のスラムダンク・コンテストを心待ちにし、期待に胸をふくらませていることだろう。スラムダンクという一瞬の煌めきと爆発の芸術には、人々を惹き付けてやまない絶対的な魅力があるのだ。そしてそのコンテストの王者が、スペシャルな存在であることは今も昔も変わらない。
1990年代に、そのチャンピオンの座に2度も輝きながら、大成するどころか早々にリーグから姿を消した選手がいた。ハロルド・マイナー、ニックネームは"ベビー・ジョーダン"。大学時代から高い評価を受け、NBAでも傑出したダンカーとして名を馳せたものの、プロでの活動期間はわずか4シーズン。あまりにも短い栄光だった。
興味深いのは、彼の失墜に"スラムダンク・コンテスト王者"という勲章が少なからず影響を及ぼしていた、という点である。"タラレバ"を言っても仕方ないが、もし彼がコンテストで優勝していなかったら、そしてネクスト・ジョーダンとしての期待とプレッシャーに打ち勝つだけの精神的な強さがあったなら、その後のキャリアはまったく違うものになっていたかもしれない。
■NBAから消えた元スラムダンク王
マイケル・ジョーダンやドミニク・ウィルキンスといった稀代のダンクアーティストが、己の意地とプライドを賭けて競い合った1980年代後半のスラムダンク・コンテスト。当時の映像をいま改めて見ると、参加選手の気合の入り方や試技の密度、そして観客の熱気には凄まじいものがあり、殊のほかスペクタクルな一大イベントだったことがよくわかる。
しかしその後、スター選手の出場回避やバリエーションのネタ切れなどにより、ひと頃の話題性や盛り上がりは年を追うごとに薄まっていった。それでも、リーグ№1ダンカー決定戦から若手の登竜門的なイベントへの段階的移行、フォーマットやレギュレーションの度重なる変更、コンテスト自体の休止という荒業等を経て、当たり外れのある年を繰り返しつつ現在に至っている。
ファンの多くは満足感と失望感を味わいながら、それでも毎年のスラムダンク・コンテストを心待ちにし、期待に胸をふくらませていることだろう。スラムダンクという一瞬の煌めきと爆発の芸術には、人々を惹き付けてやまない絶対的な魅力があるのだ。そしてそのコンテストの王者が、スペシャルな存在であることは今も昔も変わらない。
1990年代に、そのチャンピオンの座に2度も輝きながら、大成するどころか早々にリーグから姿を消した選手がいた。ハロルド・マイナー、ニックネームは"ベビー・ジョーダン"。大学時代から高い評価を受け、NBAでも傑出したダンカーとして名を馳せたものの、プロでの活動期間はわずか4シーズン。あまりにも短い栄光だった。
興味深いのは、彼の失墜に"スラムダンク・コンテスト王者"という勲章が少なからず影響を及ぼしていた、という点である。"タラレバ"を言っても仕方ないが、もし彼がコンテストで優勝していなかったら、そしてネクスト・ジョーダンとしての期待とプレッシャーに打ち勝つだけの精神的な強さがあったなら、その後のキャリアはまったく違うものになっていたかもしれない。