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NBA

リーグの黒歴史として抹消された”幻のスラムダンク・コンテスト”王者、ダーネル・ヒルマン【NBA秘話・前編】

大井成義

2020.02.12

ウォリアーズにドラフト指名されたヒルマンだったが、契約金の関係で仕方なく当時ABA所属だったペイサーズでプレー。(C)Getty Images

ウォリアーズにドラフト指名されたヒルマンだったが、契約金の関係で仕方なく当時ABA所属だったペイサーズでプレー。(C)Getty Images

 77年のスラムダンク・コンテストが、完全になかったことになっているのは、なぜなのだろうか。フォーマットが特殊だったから? それを言うなら、日程こそ同じであるものの、昨今のスラムダンク・コンテストだって頻繁に形式やルールの変更がなされているし、オールスターなんて理解に苦しむほどフォーマットが変わっていたりする。どんな形であれ、77年に“NBA”によって“スラムダンク”の“コンテスト”が開催され、チャンピオンが誕生しているのである。

 77年に開催されたスラムダンク・コンテストは、NBAにとって歴史から抹消したいイベントである、そう捉えられても仕方のないごまかし方だ。いわゆる“黒歴史”。そうなってしまった理由は、期待していた選手が参加を拒んだり、序盤戦であっけなく敗退するなどして、まったく望まない選手が勝ち進み、優勝してしまったからだろう。そしてなんと言っても、あまりにも盛り上がりに欠け、グダグダで終わってしまったから、と考える者も少なくない。

 その要因の多くは、運営サイドであるNBAと放送したテレビ局にあるわけで、選手側に落ち度はない。だが、実際問題として、かつて闇に葬られたスラムダンク・コンテストがあり、人々に忘れ去られた初代ダンク王が存在するのだ。その史実を知れば知るほど、やるせない気持ちにさせられるのは僕だけではないだろう。

 だが今から3年前、そのリアル初代ダンク王に、ほんの一瞬とはいえスポットライトが当たったのである。NBAの片隅に横たわる、心温まるストーリー。些細な出来事ではあるが、その時の映像を初めて見た時、やけにほっこりとした気分にさせられたことを覚えている。バスケットボールの神様も、たまには粋な計らいをするものだ、と。
 
■意中の選手は出場を拒否し、主役クラスは早々に敗退

 ABAのインディアナ・ペイサーズに、ダーネル・ヒルマンという選手がいた。49年にカリフォルニア州のサクラメントで生まれ、サンフランシスコのバルボア高校を経てサンノゼ州大に進学。高校、大学時代はバスケットボール以外に陸上でも活躍し、走り高跳びの選手として名を馳せた。

 サンノゼ州大在学中に陸軍から引き抜かれ、軍のチームでプレー。71年のNBAドラフトで、ゴールデンステイト・ウォリアーズから1巡目8位で指名された。

 その直後、67年に新設され、勢力を拡大しつつあったNBAのライバル団体、ABAのペイサーズからもドラフトされ、より高い契約金の提示を受ける。できれば地元に近いウォリアーズでプレーしたかったが、ウォリアーズは契約金の引き上げを拒否。仕方なくペイサーズへの入団を決意した。
 
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