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NBA

「まるで映画のような選手生活だった」実直な男フィッシャーが歩んだ激動のキャリア【NBA名脇役列伝・後編】

出野哲也

2020.02.27

「映画のような選手生活」に終止符を打ち、指導経験のないまま15年にニックスの指揮官に就任。しかし結果を残すことができなかった。(C)Getty Images

「映画のような選手生活」に終止符を打ち、指導経験のないまま15年にニックスの指揮官に就任。しかし結果を残すことができなかった。(C)Getty Images

■恩師ジャクソンの誘いでニックスの指揮官に転身する

 もっとも、すでに37歳となっていた彼からは、かつてのスピードや機敏さが失われ、守備面でチームの足枷になっていたのも事実だった。11-12シーズン途中にヒューストン・ロケッツへ放出されると、すぐに解雇されてオクラホマシティ・サンダーへ。ここで8度目のファイナル出場を果たすも、これまでのような活躍はできずチームも優勝を逃した。

 11年には選手会長として、ロックアウトという難局に直面する。紛争解決を急ぎ、選手側に不利な条件を受け入れようとしたことで一時は批判に晒され、事務局長のビリー・ハンターから辞職を勧告された。しかし、この動きに彼は敢然と立ち向かい、選手たちの支持を得て逆にハンターの追い落としに成功している。その後ハンターとは法廷闘争も繰り広げたが、フィッシャーの勝利で決着した。

 翌シーズンはダラス・マーベリックスに入団するものの、シーズン序盤にヒザを負傷。「家族と一緒に過ごしたい」との理由で解雇を申し入れ、2月にはサンダーへ復帰する。39歳で迎えた13-14シーズンも81試合に出場するなど元気な姿を見せていたが、ニューヨーク・ニックスの球団社長となった恩師フィル・ジャクソンの誘いを受け、指導者として第2の人生を歩む決意を固めたのだった。
 
「まるで映画のような選手生活だった。それはラストに近づくほど良くなる映画で、重要なキャストを演じられたことに感謝している」

 そう話したフィッシャーだったが、指導者経験が一切ないまま、多大なプレッシャーがのしかかる人気球団のヘッドコーチ(HC)を引き受けたのは、結果論ではあるが無謀だった。1年目は17勝65敗でイースタン・カンファレンス最下位。2年目は23勝31敗と多少改善されたものの、シーズン途中で解任された。その後解説者を経て、18年にWNBAロサンゼルス・スパークスのHCに就任、チームをプレーオフに導いている。

 1月26日に起きたコビー・ブライアントの悲劇に際しては「これが現実だと受け止めるのに苦労している。彼の遺産、(娘の)ジジの遺産は永遠に受け継がれるだろう」と、かつての同志に哀悼のメッセージを送った。今はまだそうした考えはないだろうが、WNBAでの経験を元にして、いつかNBAでフィッシャーの姿が再び見られる日が来ることを期待したい。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2014年9月号掲載原稿に加筆・修正
 
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