Tシャツだけでなく、プレーもドクターJ顔負けだった。コラムニストのチャールズ・P・ピアースは、高校時代のリバースについて次のように語る。
「リバースを初めて見たのは全国高校トーナメントの時だった。前日の試合で肉離れを起こした彼は、包帯をぐるぐる巻きにしてその試合に出場していた。前半は動きにキレがなくて『なんだ、評判ほどでもないな』と思ったけど、後半はまるで別人だった。何より凄かったのは、3ポイントを外したあとに自らリバウンドを奪い、ティップイン・ダンクを決めたシーンだ。私は驚きのあまり、座っていた椅子を壊してしまったほどだよ(笑)」
高校卒業後は、数多くの勧誘のなかからマジェラスがHCを務めるマーケット大を選択。1982年には、コロンビアで行なわれた世界選手権のアメリカ代表に選出される。決勝でソビエト連邦(現ロシア)に1点差で敗れ、惜しくも銀メダルに終わったが、リバース自身は平均18.6点の活躍で大会MVPに輝いた。
大学3年終了時にアーリーエントリーを表明。1983年のドラフト2巡目31位でアトランタ・ホークスに入団したリバースだったが、この指名権は、ホークスがHCのケビン・ロッカリーをシカゴ・ブルズへトレードして得たものだった。つまりリバースは、プロ入りの時点ですでに“HC⇔ドラフト指名権”のトレードに関わっていたわけだ。
指名順位こそ低かったものの、ホークスのマイク・フラテロHCは最初からリバースの実力を高く買っていた。
「とにかく動きが素早く、大学でスティールを量産したのも頷ける。ゆくゆくはNBAでも指折りのディフェンダーになれるだろう」
その言葉通り、リバースはシーズン途中から先発で起用されるようになり、チーム最多の127スティールを奪取。翌年には14.1点と平均得点を2桁に乗せ、得意のスティールは2.36本でリーグ4位にランクインするなど、メキメキと力をつけていった。
193cmとポイントガードとしてはサイズに恵まれ、ボールハンドリング、パスセンス、状況判断のいずれもが一級品。シュートはさほど得意ではなかったが、自慢のクイックネスを生かしてゴール下に切れ込み、時には豪快なダンクも見舞った。
「リバースを初めて見たのは全国高校トーナメントの時だった。前日の試合で肉離れを起こした彼は、包帯をぐるぐる巻きにしてその試合に出場していた。前半は動きにキレがなくて『なんだ、評判ほどでもないな』と思ったけど、後半はまるで別人だった。何より凄かったのは、3ポイントを外したあとに自らリバウンドを奪い、ティップイン・ダンクを決めたシーンだ。私は驚きのあまり、座っていた椅子を壊してしまったほどだよ(笑)」
高校卒業後は、数多くの勧誘のなかからマジェラスがHCを務めるマーケット大を選択。1982年には、コロンビアで行なわれた世界選手権のアメリカ代表に選出される。決勝でソビエト連邦(現ロシア)に1点差で敗れ、惜しくも銀メダルに終わったが、リバース自身は平均18.6点の活躍で大会MVPに輝いた。
大学3年終了時にアーリーエントリーを表明。1983年のドラフト2巡目31位でアトランタ・ホークスに入団したリバースだったが、この指名権は、ホークスがHCのケビン・ロッカリーをシカゴ・ブルズへトレードして得たものだった。つまりリバースは、プロ入りの時点ですでに“HC⇔ドラフト指名権”のトレードに関わっていたわけだ。
指名順位こそ低かったものの、ホークスのマイク・フラテロHCは最初からリバースの実力を高く買っていた。
「とにかく動きが素早く、大学でスティールを量産したのも頷ける。ゆくゆくはNBAでも指折りのディフェンダーになれるだろう」
その言葉通り、リバースはシーズン途中から先発で起用されるようになり、チーム最多の127スティールを奪取。翌年には14.1点と平均得点を2桁に乗せ、得意のスティールは2.36本でリーグ4位にランクインするなど、メキメキと力をつけていった。
193cmとポイントガードとしてはサイズに恵まれ、ボールハンドリング、パスセンス、状況判断のいずれもが一級品。シュートはさほど得意ではなかったが、自慢のクイックネスを生かしてゴール下に切れ込み、時には豪快なダンクも見舞った。