アイバーソンの受難はこれにとどまらなかった。オフシーズンには夫婦間のトラブルがエスカレートし、脅迫など10件もの容疑で逮捕されてしまう。最悪の場合、懲役54年を科される可能性があったなかで何とか無罪放免になったものの、このゴタゴタの影響で02-03シーズンは不調のままシーズンを終えた。
スノウの方は自己最多の平均12.9点をあげ、自身唯一の個人賞となるオールディフェンシブ2ndチームに選出されたが、大黒柱が本調子でなくてはプレーオフを勝ち抜くのは不可能だった。
シーズン終了後にブラウンはヘッドコーチを辞任し、アイバーソンとの山あり谷ありの6年間に終止符を打った。
「ブラウンは世界で最高のコーチ。自分が今あるのも彼のおかげだ。彼がいなくなるのは寂しいよ」とのアイバーソンの談話は、決して社交辞令ではなかったはずだ。
多くの人が懸念していたように、ブラウンの監視の目を離れてからのアイバーソンはまったく統制が利かなくなり、自分勝手なプレーが目立つようになった。これではどんなサポーティングキャストを連れてきても意味がなく、76ersの成績が低迷するのも当たり前だった。
04-05シーズンには、今度はスノウがチームの構想から外れ、トレードでクリーブランド・キャバリアーズへ去っていった。その後2シーズン、アイバーソンの得点は平均30点を超え、数字だけだと好調のように映った。だがそれは彼にかかる責任が増えた証であると同時に、彼をコントロールできるコーチや選手がいなくなった結果に他ならない。
「アレンが個人技に走り始めてチームプレーを乱していると感じたら、僕はそのことを彼に指摘する。逆に僕がまずいプレーをしていたら、彼はそう言ってくれる。お互い様だから、問題が起こることもないんだよ」
スノウが語ったような信頼関係をアイバーソンは他の選手と築けないまま、フィラデルフィアの街を後にした。その後はデンバー・ナゲッツなど数球団をわたり歩き、トルコでプレーした10-11シーズンを最後に現役生活を終えた。
キャバリアーズに移ったスノウも、年齢的な衰えもあってかつてのような活躍はできなかった。レブロン・ジェームズのサポート役として07年には自身3度目のファイナル進出を果たしたが、サンアントニオ・スパーズに4連敗。翌08年限りで現役を退き、12年にはサザンメソジスト大で、ブラウンの下で育成部長の職に就いた。
アイバーソンの独善的なプレースタイルでは、NBAで頂点に立つのは難しかった。そしてスノウも、単独で強豪のスターターになれるほどの才能はなかった。だが、そんな2人が力を合わせ、究極の目標まであと一歩のところへたどり着いたのである。優勝こそ実現しなかったけれども、彼らの奮闘ぶりはフィラデルフィアのファンの間でこれからも語り継がれていくことだろう。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2007年5月号掲載原稿に加筆・修正。
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スノウの方は自己最多の平均12.9点をあげ、自身唯一の個人賞となるオールディフェンシブ2ndチームに選出されたが、大黒柱が本調子でなくてはプレーオフを勝ち抜くのは不可能だった。
シーズン終了後にブラウンはヘッドコーチを辞任し、アイバーソンとの山あり谷ありの6年間に終止符を打った。
「ブラウンは世界で最高のコーチ。自分が今あるのも彼のおかげだ。彼がいなくなるのは寂しいよ」とのアイバーソンの談話は、決して社交辞令ではなかったはずだ。
多くの人が懸念していたように、ブラウンの監視の目を離れてからのアイバーソンはまったく統制が利かなくなり、自分勝手なプレーが目立つようになった。これではどんなサポーティングキャストを連れてきても意味がなく、76ersの成績が低迷するのも当たり前だった。
04-05シーズンには、今度はスノウがチームの構想から外れ、トレードでクリーブランド・キャバリアーズへ去っていった。その後2シーズン、アイバーソンの得点は平均30点を超え、数字だけだと好調のように映った。だがそれは彼にかかる責任が増えた証であると同時に、彼をコントロールできるコーチや選手がいなくなった結果に他ならない。
「アレンが個人技に走り始めてチームプレーを乱していると感じたら、僕はそのことを彼に指摘する。逆に僕がまずいプレーをしていたら、彼はそう言ってくれる。お互い様だから、問題が起こることもないんだよ」
スノウが語ったような信頼関係をアイバーソンは他の選手と築けないまま、フィラデルフィアの街を後にした。その後はデンバー・ナゲッツなど数球団をわたり歩き、トルコでプレーした10-11シーズンを最後に現役生活を終えた。
キャバリアーズに移ったスノウも、年齢的な衰えもあってかつてのような活躍はできなかった。レブロン・ジェームズのサポート役として07年には自身3度目のファイナル進出を果たしたが、サンアントニオ・スパーズに4連敗。翌08年限りで現役を退き、12年にはサザンメソジスト大で、ブラウンの下で育成部長の職に就いた。
アイバーソンの独善的なプレースタイルでは、NBAで頂点に立つのは難しかった。そしてスノウも、単独で強豪のスターターになれるほどの才能はなかった。だが、そんな2人が力を合わせ、究極の目標まであと一歩のところへたどり着いたのである。優勝こそ実現しなかったけれども、彼らの奮闘ぶりはフィラデルフィアのファンの間でこれからも語り継がれていくことだろう。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2007年5月号掲載原稿に加筆・修正。
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