ブルーワーカーとしてどのチームでも重宝されたPJ・ブラウンは、セルティックスで93番だったのを除いてずっと42番。ブルズの最初の3連覇をバックアップとして支えたスコット・ウィリアムズを記憶している人も多いだろう。80年代にニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツなどのセンターだったマイク・ジミンスキーは、現役最後に8試合だけ出たバックス時代を除き、14年間ずっと42番を通した。
アウトサイドシュートが得意なケビン・ラブも、プレースタイルに若干の違いはあるが、大筋ではこのラインから外れていない。UCLA時代から背番号42で、同大学ではウォルター・ハザードの欠番になっていたのを、本人の許可を得て着用していた。ミネソタ・ティンバーウルブズ時代にずっと42番で、キャバリアーズ移籍後はサーモンドの欠番だったため0番に変更した。ハザードはプロでもレイカーズなど4球団で42番を背負い、オールスターにも出場している。
ビッグマンではないが、好守のガードとして知られたトニー・アレンもセルティックス時代はこの番号。チームプレー優先、ディフェンス重視のスタイルは42番のイメージに合っている。
プロ入り時の期待に応えられなかった42番には、パービス・エリソンがいる。89年にドラフト1位指名された才能豊かなセンターで、92年にMIPを受賞したが、その後は尻すぼみだった。ロイ・タープリーも非常に高いポテンシャルの持ち主で、88年から4年連続で得点とリバウンドのダブルダブルをマークしたが、麻薬に溺れ3年間も出場停止を喰らい、30歳で引退を余儀なくされた。
シューター系の42番はルーシャス・アレン、現役のダービス・ベルタンス(ウィザーズ)、そしてジェリー・スタックハウスが挙げられる。ノースカロライナ州出身のスタックハウスにとって、42番は子どもの頃に憧れたウォージーの番号だったが、その後ロビンソンの偉大さを知り、シューズに〝42〞〝ジャッキー〞と書き込むようになった。12年にブルックリン・ネッツへ移籍し、ロビンソン以来、ブルックリンのプロスポーツチームで初めて42番をつけた選手となっている。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2013年12月号原稿に加筆・修正
【PHOTO】NBA最強の選手は誰だ?識者8人が選んだ21世紀の「ベストプレーヤートップ10」を厳選ショットで紹介!
アウトサイドシュートが得意なケビン・ラブも、プレースタイルに若干の違いはあるが、大筋ではこのラインから外れていない。UCLA時代から背番号42で、同大学ではウォルター・ハザードの欠番になっていたのを、本人の許可を得て着用していた。ミネソタ・ティンバーウルブズ時代にずっと42番で、キャバリアーズ移籍後はサーモンドの欠番だったため0番に変更した。ハザードはプロでもレイカーズなど4球団で42番を背負い、オールスターにも出場している。
ビッグマンではないが、好守のガードとして知られたトニー・アレンもセルティックス時代はこの番号。チームプレー優先、ディフェンス重視のスタイルは42番のイメージに合っている。
プロ入り時の期待に応えられなかった42番には、パービス・エリソンがいる。89年にドラフト1位指名された才能豊かなセンターで、92年にMIPを受賞したが、その後は尻すぼみだった。ロイ・タープリーも非常に高いポテンシャルの持ち主で、88年から4年連続で得点とリバウンドのダブルダブルをマークしたが、麻薬に溺れ3年間も出場停止を喰らい、30歳で引退を余儀なくされた。
シューター系の42番はルーシャス・アレン、現役のダービス・ベルタンス(ウィザーズ)、そしてジェリー・スタックハウスが挙げられる。ノースカロライナ州出身のスタックハウスにとって、42番は子どもの頃に憧れたウォージーの番号だったが、その後ロビンソンの偉大さを知り、シューズに〝42〞〝ジャッキー〞と書き込むようになった。12年にブルックリン・ネッツへ移籍し、ロビンソン以来、ブルックリンのプロスポーツチームで初めて42番をつけた選手となっている。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2013年12月号原稿に加筆・修正
【PHOTO】NBA最強の選手は誰だ?識者8人が選んだ21世紀の「ベストプレーヤートップ10」を厳選ショットで紹介!
関連記事
- 【NBA背番号外伝】ジョーダンやレブロンが背負ったアメリカ代表のエースナンバー「9」。しかしNBAで活躍したスターは…
- 【NBA背番号外伝】敬遠されがちな“13”。しかしチェンバレン、ハーデンの新旧スコアリングマシンのほか、ナッシュら海外出身選手も多く着用
- 【NBA背番号外伝】近年は「30番=カリー」のイメージが定着。2000年代以前に同番号を背負った選手と言えば?
- ダンカン、ガーネットが背負った「背番号21」。70年代はスコアラー、近年はビッグマンの好選手が着用【NBA背番号外伝】
- 優秀な人材を多く輩出するも“プレップ・トゥ・プロ”時代を締める打ち上げ花火は不発に【NBAドラフト史|2005年】