だがその頃のNBAは、誰もが楽しめるエンターテインメントにはほど遠かった。ショットクロックが存在しなかったため、一旦リードを奪ったチームはひたすらパスやドリブルで時間を引き伸ばし、両チームの得点が70点を下回るのは日常茶飯事。50年のピストンズ対レイカーズ戦では19-18と現在では考えられないようなスコアも見られた。
「第3クォーターになったら、観客はプログラムを眺める以外にすることがなくなった」(ボブ・クージー/元セルティックスほか)という状態では、客足が遠のくのは当たり前。年を追うごとに参加球団も少しずつ減っていき、55-56シーズンには合併当初の半数以下の8球団となってしまった。
NBAが人気向上策として、54-55シーズンから導入したのが24秒のショットクロックだった。強制的に攻撃の機会を増やしたことで、平均得点はリーグ全体で14点近くも上昇。スピーディーでエキサイティングな試合が展開されるようになり、リーグ発展のきっかけとなった。
56年を最後にマイカンが引退すると、入れ替わるようにビル・ラッセルがセルティックスに入団する。黒人で初めてのスター選手(それまでにも黒人選手は何人かいたが、トップクラスのスター級はいなかった。なおBBA/NBAで最初の非白人選手は、47年にニックスでプレーした日系人の三阪亙)となったラッセルは、得点力は高くなかったものの、リバウンドとブロックショットを得意とする最強ディフェンダーだった。ボールを観客席まで弾き飛ばして得意になっている凡庸なブロッカーとは異なり、ラッセルのブロックはボールがチームメイトの手に渡るように、あらかじめ計算されて放たれていたため、実質的なパスとして速攻の起点となっていた。
この頼もしい守護神以外にも、名ドリブラーのクージー、フリースローの名手だったビル・シャーマンら優秀な選手たちを擁し、名将レッド・アワーバックが指揮を執ったセルティックスは、57年に初優勝。58年には当時最高のビッグマンの1人だったボブ・ペティット率いるセントルイス・ホークス(現アトランタ・ホークス)に敗れたものの、59年に覇権を取り返すと、60年代にNBA史上最長の王朝を築くことになる。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2016年11月号より転載
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「第3クォーターになったら、観客はプログラムを眺める以外にすることがなくなった」(ボブ・クージー/元セルティックスほか)という状態では、客足が遠のくのは当たり前。年を追うごとに参加球団も少しずつ減っていき、55-56シーズンには合併当初の半数以下の8球団となってしまった。
NBAが人気向上策として、54-55シーズンから導入したのが24秒のショットクロックだった。強制的に攻撃の機会を増やしたことで、平均得点はリーグ全体で14点近くも上昇。スピーディーでエキサイティングな試合が展開されるようになり、リーグ発展のきっかけとなった。
56年を最後にマイカンが引退すると、入れ替わるようにビル・ラッセルがセルティックスに入団する。黒人で初めてのスター選手(それまでにも黒人選手は何人かいたが、トップクラスのスター級はいなかった。なおBBA/NBAで最初の非白人選手は、47年にニックスでプレーした日系人の三阪亙)となったラッセルは、得点力は高くなかったものの、リバウンドとブロックショットを得意とする最強ディフェンダーだった。ボールを観客席まで弾き飛ばして得意になっている凡庸なブロッカーとは異なり、ラッセルのブロックはボールがチームメイトの手に渡るように、あらかじめ計算されて放たれていたため、実質的なパスとして速攻の起点となっていた。
この頼もしい守護神以外にも、名ドリブラーのクージー、フリースローの名手だったビル・シャーマンら優秀な選手たちを擁し、名将レッド・アワーバックが指揮を執ったセルティックスは、57年に初優勝。58年には当時最高のビッグマンの1人だったボブ・ペティット率いるセントルイス・ホークス(現アトランタ・ホークス)に敗れたものの、59年に覇権を取り返すと、60年代にNBA史上最長の王朝を築くことになる。
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2016年11月号より転載
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