同年のドラフトでは、ロバートソンに次ぐ2位指名でレイカーズに入団。ミネアポリスからロサンゼルスへの移転が決まっていたレイカーズは、新へッドコーチとしてウエストの恩師、ウエストバージニア大のフレッド・シャウスを招聘。万全の体制を整えた上でウエストを迎え入れた。
ただ、正真正銘の田舎育ちで、性格も外交的ではなかったウエストにとって大都会のロサンゼルスはカルチャーショックの連続だった。早口で訛りも強く、チームメイトですら聞き取れないこともあり、それを気にするあまり口数も少なくなった。シャウスの回想によれば、2週間にわたって一言もしゃべらなかったこともあったそうだ。
けれども、一旦コートに足を踏み出せば彼のプレーは誰よりも雄弁だった。1年目はシャウスの方針もあって出場時間が少なく、平均17.6点にとどまったが、2年目の61-62シーズンは30.8点まで急上昇。当時MIPがあれば間違いなく受賞していただろう。長い腕を生かしたディフェンスでも高い評価を得た。
「どれだけいい成績でも満足したことはない。打ったシュートは1本残らず決めなければ気が済まなかった」と言う並外れた向上心と、自分だけでなく他人にも最大限の努力を求める厳しい姿勢が、成長の源だった。重要な場面では進んでシュートを放ち、チーム・アナウンサーのチック・ハーンから“ミスター・クラッチ”の異名を奉られた。からかい半分につけられた最初のニックネームに代わって、この新しい呼び名が彼の代名詞となった。
■8度目の挑戦でようやく手にしたNBAタイトル
ウエストがアウトサイド、エルジン・ベイラーがインサイドで点を取りまくり、レイカーズは62、63年と2年連続でファイナルに進出。1年おいて2年連続、また1年おいて今度は3年連続と、ウエスト入団後最初の10年間で7回もファイナルに進んだ。
ところが、その7回すべてでレイカーズは敗北を喫した。最初の6回の対戦相手はすべてセルティックス。難攻不落の防波堤ビル・ラッセルを中心とする強固なディフェンスと組織的なバスケットボールを、どうしても打ち倒せなかった。62、66、69年は最終戦までもつれ込んだがわずかに及ばず、 66年と69年は2点差に泣いた。ラッセルが引退し、ニックスが勝ち上がってきた70年も第7戦で敗れ去った。
ウエストが活躍できなかったわけではなく、 その反対だった。舞台が大きくなればなるほど、彼のプレーには磨きがかかった。65年はポストシーズン11試合で平均40.5点、ディビジョン決勝(現在のカンファレンス決勝)のボルティモア・ブレッツ (現ワシントン・ウィザーズ)戦では46.3点。翌66年も14試合で平均34.2点と大暴れした。69年のファイナルは第1戦で53得点、最終戦でも42得点、13 リバウンド、12アシスト。すでに記したように、この活躍によって初代ファイナルMVPに選出された。
ただ、正真正銘の田舎育ちで、性格も外交的ではなかったウエストにとって大都会のロサンゼルスはカルチャーショックの連続だった。早口で訛りも強く、チームメイトですら聞き取れないこともあり、それを気にするあまり口数も少なくなった。シャウスの回想によれば、2週間にわたって一言もしゃべらなかったこともあったそうだ。
けれども、一旦コートに足を踏み出せば彼のプレーは誰よりも雄弁だった。1年目はシャウスの方針もあって出場時間が少なく、平均17.6点にとどまったが、2年目の61-62シーズンは30.8点まで急上昇。当時MIPがあれば間違いなく受賞していただろう。長い腕を生かしたディフェンスでも高い評価を得た。
「どれだけいい成績でも満足したことはない。打ったシュートは1本残らず決めなければ気が済まなかった」と言う並外れた向上心と、自分だけでなく他人にも最大限の努力を求める厳しい姿勢が、成長の源だった。重要な場面では進んでシュートを放ち、チーム・アナウンサーのチック・ハーンから“ミスター・クラッチ”の異名を奉られた。からかい半分につけられた最初のニックネームに代わって、この新しい呼び名が彼の代名詞となった。
■8度目の挑戦でようやく手にしたNBAタイトル
ウエストがアウトサイド、エルジン・ベイラーがインサイドで点を取りまくり、レイカーズは62、63年と2年連続でファイナルに進出。1年おいて2年連続、また1年おいて今度は3年連続と、ウエスト入団後最初の10年間で7回もファイナルに進んだ。
ところが、その7回すべてでレイカーズは敗北を喫した。最初の6回の対戦相手はすべてセルティックス。難攻不落の防波堤ビル・ラッセルを中心とする強固なディフェンスと組織的なバスケットボールを、どうしても打ち倒せなかった。62、66、69年は最終戦までもつれ込んだがわずかに及ばず、 66年と69年は2点差に泣いた。ラッセルが引退し、ニックスが勝ち上がってきた70年も第7戦で敗れ去った。
ウエストが活躍できなかったわけではなく、 その反対だった。舞台が大きくなればなるほど、彼のプレーには磨きがかかった。65年はポストシーズン11試合で平均40.5点、ディビジョン決勝(現在のカンファレンス決勝)のボルティモア・ブレッツ (現ワシントン・ウィザーズ)戦では46.3点。翌66年も14試合で平均34.2点と大暴れした。69年のファイナルは第1戦で53得点、最終戦でも42得点、13 リバウンド、12アシスト。すでに記したように、この活躍によって初代ファイナルMVPに選出された。
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