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NBA

追悼ジェリー・ウエスト——田舎の少年がレイカーズのエース、NBAロゴのモデルとなるまで【レジェンド列伝:再掲】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2024.06.14

引退後はGMとして辣腕を振るったウエスト。1996年にはのちにスーパースターとなるコビーをトレードで獲得した。(C)Getty Images

引退後はGMとして辣腕を振るったウエスト。1996年にはのちにスーパースターとなるコビーをトレードで獲得した。(C)Getty Images

 それでも最大の目標に届かないのでは、喜べるはずもなかった。「信じがたいほどのフラストレーションだよ」。あと一歩で優勝を逃し続けるたび、周囲の者が近づけないほどウエストは落胆した。「これだけ優勝に迫っても届かないのなら、いっそもっと早い段階で負けたほうがいいくらいだ」

 33歳になった71-72シーズンには、肉体的な衰えを感じて真剣に引退を考え始めていた。ところがこの年、レイカーズはリーグ記録として現在も残る33連勝を達成するなど、当時の新記録となる69勝。ウエスト自身も平均25.8点に加え、9.7アシストはリーグ1位。70年の得点王に続く個人タイトルで、両部門でのタイトル獲得は史上初だった。再びニックスと対戦したファイナルも、第1戦に敗れたあと4連勝。長年夢見続けてきた栄冠に、8度目の挑戦でようやく手が届いた。

 その後2年間現役を続けたのち、「自分が思うレベルのプレーができなくなった」として、 74-75シーズンのキャンプ中に引退を表明した。 通算2万5192得点はチームメイトのウィルト・チェンバレン、好敵手ロバートソンに次いで3位、平均27.0点は4位(いずれも引退時点)。プレーオフ通算153試合で記録した平均29.1点は、ジョーダンに抜かれるまでの最高記録だった。
 
■選手、GMの両方で輝かしい実績を残す

 引退直後に犬猿の仲だったレイカーズのオーナーを訴えたこともあって、その後しばらくウエストはバスケットボールから離れ、ゴルフ三昧の日々を送っていた。だが、76年にヘッドコーチとしてレイカーズに復帰。ウエストのいない2年間はプレーオフ進出を逃していたチームは、新戦力のカリーム・アブドゥル・ジャバーの活躍で地区王座に返り咲いた。だがコーチ業に魅力を感じなかったウエストは、3年務めたあとで退任 。スカウトを経て、82年にGMに就任した。

 82年以降、レイカーズはジャバーやマジック・ジョンソンを擁して4回優勝したが、 GMとしてのウエストの手腕にはあまりスポットライトは当たらなかった。彼の能力が真に認められたのは、マジックらが去った90年代、若手を中心としてチームを再建してからである。 95年に最優秀エグゼクティブ賞を受賞、その後FAでシャキール・オニール、トレードでコピーを獲得し、2000年からは3連覇を果たした。この時点でロサンゼルス・レイカーズの9度の優勝のすべてに、彼は何らかの形で関わっていた。

 ウエストの下で働いていたレイカーズの球団職員は「ジェリーは我々の父親のような存在だった。みながチームにとって重要な仕事を任されているという気分にさせてくれた」と証言している。こうした心配りができたからこそ、彼はマネージメントの領域でも一人者となれたのだ。
 
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