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東京五輪

東京五輪が最後の舞台に。アルゼンチンの生ける伝説ルイス・スコラが示した“ベテランの美しき去り際”と“セカンドキャリア”<DUNKSHOOT>

小川由紀子

2021.09.24

東京五輪の準々決勝終盤。これまで数々の功績を残したスコラに敵味方関係なくスタンディング・オベーションが贈られた。(C)Getty Images

東京五輪の準々決勝終盤。これまで数々の功績を残したスコラに敵味方関係なくスタンディング・オベーションが贈られた。(C)Getty Images

 国際大会ではキャプテンとして会見に臨む機会が多かったスコラだが、自身への称賛を語ることはなかった。母国のメディアだけでなく各国の記者陣からも絶大な尊敬を勝ち得ていた彼には、肉体を鍛える日々の姿勢やその取り組み方について常に質問が投げられたが、そんな時はいつも、「自分は特別なことをしているわけじゃない。プロのバスケットボール選手として、自分に必要なものを整えているだけ」と、過剰な賛辞をやんわり退けた。

 コート上でも、自分が主役になるよりも身体を張って周囲の優秀なタレントたちを輝かせるタイプのプレーヤーだった。

 それでも、アルゼンチンを世界のバスケ大国の一角に押し上げたことに、彼が多大な貢献をしたことは揺るぎない事実だ。

 16歳で出場した1996年の南米ジュニア選手権での金メダルを皮切りに、アメリカ大陸選手権で9個のメダル(金2、銀4、銅3)、オリンピックで金(04年アテネ)と銅(08年北京)、ワールドカップでは2度の準優勝(02年、19年)。アルゼンチン代表としての173試合出場、2857得点は、同国のオールタイムレコードだ。

 クラブでも、18歳で初めて本国を離れて欧州に挑戦したスペインのタウ・セラミカ(現バスコニア)で、黄金期を築く一員となった。2002年のNBAドラフトでサンアントニオ・スパーズから全体56位で指名を受けると、契約が足枷となってすぐに渡米とはならなかったが、07年にヒューストン・ロケッツに入団。オールルーキー1stチームに選出され、以降NBAで10年間の充実したキャリアを送った。
 
 東京五輪後の9月20日、スコラは現役を引退し、昨シーズン在籍したイタリアのクラブ、ヴァレーゼのCEO(最高経営責任者)に就任したことが発表された。

 70年代はユーロリーグ常連で、これまで10度の国内リーグ制覇を誇るヴァレーゼだが、98-99シーズンの優勝を最後にトロフィーからは遠ざかっている。今季のロースターの中心は、2014年のNBAドラフトでミネソタ・ティンバーウルブズから53位で指名を受けたイタリア人フォワードのアレッサンドロ・ジェンティーレや、Gリーグ出身のアメリカ人選手たちだ。

 ミラノ近郊にあるヴァレーゼは、セレブのバカンス先としても名高いコモ湖に近い、風光明媚な美しい街だが、ヴァレーゼ湖を望む美しい丘も、スコラにとってはきっと日々のトレーニングコースになっていることだろう。

 それにしても、ルイス・スコラは『4番』が似合う選手だった。生ける伝説と呼ばれる彼は、この中堅クラブに今度は運営側からエネルギーを注入してくれるはずだ。ヴァレーゼをユーロリーグで見る日も、遠くないかもしれない。

文●小川由紀子
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