その後、ケンタッキー大のアシスタントコーチ、ドゥエイン・ケイシー(同年ミルズのリクルートスキャンダルで失脚。現ピストンズHC)の紹介で、テキサスのトリニティバレー・コミュニティカレッジに編入。すでにシーズンが半ばを過ぎていたこともあり、そこでもプレーせず、ケンプは大胆にもNBA入りを表明する。当時、大学でプレー経験のない状態でNBA入りした選手は4人しかおらず、また丸1年実戦から遠ざかっていたにもかかわらず、である。
■ペイトンと出会い開花したジョーダン級の才能
1989年のNBAドラフトで、シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)がケンプを1巡目17位で指名するというギャンブルに打って出る。ケンプの名前が読み上げられると、ドラフト会場にはブーイングの嵐が吹き荒れた。観客の多くは、ケンプがケンタッキー大で起こした不祥事のことを知っており、さらには高校卒業から1年間もブランクのあるティーンエイジャーが、いくら才能があろうと簡単にはNBAで通用するはずがないと考えていた。
だが、ソニックスの仕掛けたギャンブルが決して失敗ではなかったことを、ケンプは身をもって証明してみせた。1年目から控え選手ながら81試合に出場し、平均出場時間13.8分、6.5点、4.3リバウンドを記録。またマイアミで行なわれたオールスターのスラムダンク・コンテストに出場し、準決勝で敗れたものの、優勝したドミニク・ウィルキンスを差し置いて1回戦でトップのスコアをマークするなど、ファンの多くは弱冠20歳の若者に秘められた無限の可能性を感じずにはいられなかった。
そして翌1990年、ソニックスはオレゴン州大のオールアメリカンPG、ゲイリー・ペイトンの獲得に成功。ここにケンプ&ペイトンの強力デュオが誕生する。
ルーキーイヤーから先発として全試合に出場し、ストリートスタイルの創造性あふれるプレーを得意としていたペイトンは、本能の赴くままプレーするケンプにとって最良のパートナーとなった。一方のケンプもシーズンの途中からスターターに定着、平均15.0点、8.4リバウンドと成績を大幅に伸ばし、球団記録となる1試合10ブロックをマークするなど徐々に頭角を現わしていった。再挑戦したスラムダンク・コンテストでは、ディー・ブラウンに次いで2位の好成績を収めている。(後編に続く)
文●大井成義
※『ダンクシュート』2004年5月号掲載原稿に加筆・修正。
■ペイトンと出会い開花したジョーダン級の才能
1989年のNBAドラフトで、シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)がケンプを1巡目17位で指名するというギャンブルに打って出る。ケンプの名前が読み上げられると、ドラフト会場にはブーイングの嵐が吹き荒れた。観客の多くは、ケンプがケンタッキー大で起こした不祥事のことを知っており、さらには高校卒業から1年間もブランクのあるティーンエイジャーが、いくら才能があろうと簡単にはNBAで通用するはずがないと考えていた。
だが、ソニックスの仕掛けたギャンブルが決して失敗ではなかったことを、ケンプは身をもって証明してみせた。1年目から控え選手ながら81試合に出場し、平均出場時間13.8分、6.5点、4.3リバウンドを記録。またマイアミで行なわれたオールスターのスラムダンク・コンテストに出場し、準決勝で敗れたものの、優勝したドミニク・ウィルキンスを差し置いて1回戦でトップのスコアをマークするなど、ファンの多くは弱冠20歳の若者に秘められた無限の可能性を感じずにはいられなかった。
そして翌1990年、ソニックスはオレゴン州大のオールアメリカンPG、ゲイリー・ペイトンの獲得に成功。ここにケンプ&ペイトンの強力デュオが誕生する。
ルーキーイヤーから先発として全試合に出場し、ストリートスタイルの創造性あふれるプレーを得意としていたペイトンは、本能の赴くままプレーするケンプにとって最良のパートナーとなった。一方のケンプもシーズンの途中からスターターに定着、平均15.0点、8.4リバウンドと成績を大幅に伸ばし、球団記録となる1試合10ブロックをマークするなど徐々に頭角を現わしていった。再挑戦したスラムダンク・コンテストでは、ディー・ブラウンに次いで2位の好成績を収めている。(後編に続く)
文●大井成義
※『ダンクシュート』2004年5月号掲載原稿に加筆・修正。