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トヨタカップ初代MVPのウルグアイ人レジェンドFWが急逝…『キャプテン翼』のキャラクターモデルにも。古巣クラブが本拠地への散骨を発表

THE DIGEST編集部

2023.08.31

第1回トヨタカップでMVPを獲得したビクトリーノ。写真:Press Association/アフロ

 1970年代から80年代かけて活躍したウルグアイ・サッカーのレジェンド・ストライカーのひとりであるワルデマール・ビクトリーノが8月29日に同国モンテビデオ市内の病院で亡くなった。享年71。各国の複数メディアによれば、前日に銃で自殺を図って病院に搬送され、集中治療が行なわれたものの、脳死が宣告され、翌日に帰らぬ人となった。
 
 1952年5月22日のビクトリーノは、170cm強と体躯には恵まれなかったものの、高い得点嗅覚とテクニックに秀でた点取り屋であり、「南米のゲルト・ミュラー」の異名をとった。69年にセロでプロデビューを飾ると、プログレソ、リーベル(ウルグアイ)を経て79年に加入したナシオナルでは80年に国内リーグ、コパ・リベルタドーレス、そして翌年のインターコンチネンタル・カップ(トヨタカップ)と、三冠に貢献。後者の2つのカップ戦では、いずれも決勝点を挙げ、リベルタドーレスでは得点王にも輝いた。

 トヨタカップは記念すべき第1回大会であり、奇しくも今年7月24日に心臓発作により69歳で亡くなった「元祖100万ポンド・プレーヤー」のFWトレバー・フランシスを擁するノッティンガム・フォレストと対決。国立競技場の冬枯れの芝の上で開始10分、右からのクロスに対し、素早くマーカーの前に出てボールを受け、名手ピーター・シルトンの牙城を崩したプレーは、6万人超の観客を大いに沸かせた。これが決勝点となり、ビクトリーノはここから2004年まで続く同カップの、初代MVPとなった。

 76年に初キャップを刻んで通算33試合出場15得点を記録したウルグアイ代表としての最大の勲章は、80年冬にモンテビデオで開催されたワールドカップ50周年記念大会「コパ・デ・オロ(ムンディアリート)」だろう。イングランドを除く(オランダが代替出場)歴代W杯優勝国による豪華なトーナメントで、3ゴールを決めて唯一の複数得点者となり、得点王に輝いたことであり、これがビクトリーノの名を世界に知らしめた。

 80年代はデポルティボ・カリ(コロンビア)、カリアリ(イタリア)、ニューウェルス・オールドボーイズ(アルゼンチン)などの国外クラブを渡り歩き、89年にペルーのデフェンソール・リマでキャリアに幕を下ろし、引退後は後進の育成という形で母国サッカー界に貢献をしてきた。

 このレジェンド、日本との関わりは前述のトヨタカップ出場だけではない。世界中で高い人気を誇り、多くのスーパースターたちに影響を与えたサッカー漫画『キャプテン翼』において、主人公らのライバルのひとりとして登場した若手ウルグアイ人FW「ラモン・ビクトリーノ」のモデルとなっており、『Futbol.uy』らウルグアイ・メディアだけでなく、イタリアの『SPORT MEDIASET』なども「『オーリ・エ・ベンジ』(イタリアでのタイトル)で、作者の高橋陽一氏にインスピレーションを与えた」と紹介している。
 
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