ブラジル代表の選手、監督、アシスタントとして、4度のワールドカップ優勝に貢献した偉大なるレジェンド、マリオ・ジョルジ・ロボ・ザガロが1月5日、92歳で死去した。昨年12月末からリオデジャネイロのバラドール病院に入院しており、死因は多臓器不全だと発表されている。
【PHOTO】バッジョ、ロナウジーニョ、メッシ…厳選写真で振り返る過去30年の「超ワールドクラス図鑑」ウィング/セカンドトップ編 1931年8月9日にアラゴアス州の州都マセイオで生まれ、生後8か月でリオデジャネイロに移住したザガロは、アメリカのユースチームを経て、フラメンゴに加入し、51年にプロデビュー。左ウイングとして、1953年からチームをリオ州選手権の3連覇に導き、58年に移籍したボタフォゴでもリオ州選手権2連覇(61、62年)を含む4タイトルをもたらした。
18歳で陸軍に招集された際には、自国開催の50年ワールドカップ決勝(決勝リーグ最終戦)でスタジアムの警備を務め、ウルグアイに逆転負けを食らった「マラカナンの悲劇」の目撃者となった彼は、58年に代表初キャップを刻み、同年のW杯スウェーデン大会では開催国との決勝戦でゴールを決めて初優勝に貢献。攻撃選手でありながら、相手の中盤選手のマークに奔走して「フォルミギーニャ(小さな蟻)」と呼ばれるなど、当時としては珍しいタイプだったという。
続くチリ大会でも主力として連覇を果たすと、その2年後に現役を引退し、66年にボタフォゴで指導者としてのキャリアをスタートさせたザガロが、再び世界で脚光を浴びたのは70年。それまで、67、68年に1試合だけ「セレソン」を率いた経験を持つ彼は、メキシコW杯開幕の3か月前に解任されたジョアン・サルダーニャに代わって指揮を執り、ペレら優れたタレントたちが揃った史上最高といわれるチームで史上最高のプレーを見せてV3一番乗りを果たし、ジュール・リメ・カップ永久保持という栄誉を授けられた。
その後、クラブでは国内外の7クラブ、また代表チームは中東のクウェート、サウジアラビア、UAEを率い、UAEでは90年イタリアW杯で予選初突破を達成(本大会での指揮はカルロス・アルベルト・パレイラ)。ブラジル代表では、王者として臨んだ74年西ドイツW杯でヨハン・クライフのオランダ代表に完敗を喫して4位に終わって退任したが、91年からパレイラ監督のテクニカルコーディネーターとしてセレソンに携わり、94年のアメリカW杯で4度目の世界一を経験した。
パレイラ退任後に代表監督復帰を果たすと、怪物ロナウドを擁して世界最強といわれたチームを約4年間率い続け、ジーコをアシスタントに添えて臨んだ98年フランスW杯では準優勝。大会屈指の好勝負となった準決勝オランダ戦でPK戦を制した後、感涙に咽ぶ彼の姿を記憶に留めている者は少なくないだろう。
そして、ブラジルが5度目の世界一を果たした2002年に暫定として最後の指揮を執り、2003年から2006年のドイツW杯まで、パレイラ監督の下で再びテクニカルコーディネーターを務めたのが、名将にとっての最後の職務となった。
【PHOTO】バッジョ、ロナウジーニョ、メッシ…厳選写真で振り返る過去30年の「超ワールドクラス図鑑」ウィング/セカンドトップ編 1931年8月9日にアラゴアス州の州都マセイオで生まれ、生後8か月でリオデジャネイロに移住したザガロは、アメリカのユースチームを経て、フラメンゴに加入し、51年にプロデビュー。左ウイングとして、1953年からチームをリオ州選手権の3連覇に導き、58年に移籍したボタフォゴでもリオ州選手権2連覇(61、62年)を含む4タイトルをもたらした。
18歳で陸軍に招集された際には、自国開催の50年ワールドカップ決勝(決勝リーグ最終戦)でスタジアムの警備を務め、ウルグアイに逆転負けを食らった「マラカナンの悲劇」の目撃者となった彼は、58年に代表初キャップを刻み、同年のW杯スウェーデン大会では開催国との決勝戦でゴールを決めて初優勝に貢献。攻撃選手でありながら、相手の中盤選手のマークに奔走して「フォルミギーニャ(小さな蟻)」と呼ばれるなど、当時としては珍しいタイプだったという。
続くチリ大会でも主力として連覇を果たすと、その2年後に現役を引退し、66年にボタフォゴで指導者としてのキャリアをスタートさせたザガロが、再び世界で脚光を浴びたのは70年。それまで、67、68年に1試合だけ「セレソン」を率いた経験を持つ彼は、メキシコW杯開幕の3か月前に解任されたジョアン・サルダーニャに代わって指揮を執り、ペレら優れたタレントたちが揃った史上最高といわれるチームで史上最高のプレーを見せてV3一番乗りを果たし、ジュール・リメ・カップ永久保持という栄誉を授けられた。
その後、クラブでは国内外の7クラブ、また代表チームは中東のクウェート、サウジアラビア、UAEを率い、UAEでは90年イタリアW杯で予選初突破を達成(本大会での指揮はカルロス・アルベルト・パレイラ)。ブラジル代表では、王者として臨んだ74年西ドイツW杯でヨハン・クライフのオランダ代表に完敗を喫して4位に終わって退任したが、91年からパレイラ監督のテクニカルコーディネーターとしてセレソンに携わり、94年のアメリカW杯で4度目の世界一を経験した。
パレイラ退任後に代表監督復帰を果たすと、怪物ロナウドを擁して世界最強といわれたチームを約4年間率い続け、ジーコをアシスタントに添えて臨んだ98年フランスW杯では準優勝。大会屈指の好勝負となった準決勝オランダ戦でPK戦を制した後、感涙に咽ぶ彼の姿を記憶に留めている者は少なくないだろう。
そして、ブラジルが5度目の世界一を果たした2002年に暫定として最後の指揮を執り、2003年から2006年のドイツW杯まで、パレイラ監督の下で再びテクニカルコーディネーターを務めたのが、名将にとっての最後の職務となった。