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海外サッカー

ミランの凋落期に“10番”は何を残したのか。伊番記者が語る本田圭祐との4年半「心を開けばもっと愛された」

マルコ・パソット

2022.01.05

ピッチ内外でプロフェッショナルな姿勢を貫いた本田(10番)。そんな日本人をインザーギは誰よりも寵愛していた。(C)Alberto LINGRIA

ピッチ内外でプロフェッショナルな姿勢を貫いた本田(10番)。そんな日本人をインザーギは誰よりも寵愛していた。(C)Alberto LINGRIA

 もちろんミランでの背番号が、彼に重すぎた面はあっただろう。それはかつて栄光の10番を背負ってきた男たちを振り返れば一目瞭然だ。ジャンニ・リベラ、デヤン・サビチェビッチ、ズボニミール・ボバン、マヌエル・ルイ・コスタ、クラレンス・セードルフに比べ、本田は人々を熱狂させることはできなかった。

 しかし、だ。ひとたび本田という人間を知ると、サポーターは彼らしさを評価もするようになった。所属した3年半の間、サン・シーロ(ミランの本拠地)が、本田に惜しみない拍手を送ったシーンも少なからずあった。それは彼がどんな時も力を出し惜しみしない選手であるとミラニスタたちもわかっていたからである。

 私個人としては、もう少しだけ皆に心を開いてくれたならば、彼のミランでの日々は変わっていただろうと思う。本田が自身の言葉で、自らの思いを語ってくれたなら、ミラニスタにもっと愛されたはずだ。

 性格を変えるのは難しい。だが、ミラン番としてチームに帯同した時、私は何度も本田の姿に違和感を覚えた。例えば、2016年の夏にプレシーズンのアメリカツアーへ行った時、ヴィンチェンツォ・モンテッラ監督から与えられた唯一の自由時間、多くのチームメイトは連れ立ってアメリカの夜を楽しんでいた。だが、本田はチームとは全く無関係の人たちと出かけていた。

 また、イタリアに帰国する前の空港ゲートでも、飛行機に乗る前にも、本田は仲間たちとは離れ、たった一人でずっとタブレットをいじっていた。彼が取り組んで様々なビジネスに関する仕事をしていたのかもしれない。飛行機に乗った後もそれは変わらず、彼は皆から離れた席を選んで座っていた。
 

 ただ、その頃には仲間もそんな本田の姿には慣れっこになっていて、幸いにもそれを傲慢さや過信とからくるものとは受け取っていなかった。それが本田という人間なのだと皆分かっていた。仲間たちがそんな彼を受け入れたのは、彼がいつも真っ先に練習場にやってきては、最後に帰る人間だったからだ(ミラネッロへの送迎は運転手付きの車と、これまた他の選手とは異なっていたが)。

 こうした本田の仕事への姿勢はもちろん監督たちにも歓迎された。フィリッポ・インザーギは、自分のスタッフにこう漏らしていたことがあった。

「なんで選手たち全員がホンダみたいじゃないんだ」

 監督が期待するような真面目さで練習に臨まない選手がいたのだろう。
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