国内外の多くのサッカー界の仲間から別れや感謝のメッセージが送られた彼には、またイタリア人の英国進出の先駆者ということで、ブライトンのロベルト・デ・ゼルピ監督は「私がここに来たのは、ジャンルカが英国に到来してから約20年後のことだ。私が歓迎してもらえたのは、ジャンルカをはじめとするこれまでの素晴らしいイタリア人の先達のおかげである」と感謝の言葉を捧げている。
そして、ヴィアッリといえば、生涯の親友であるロベルト・マンチーニを忘れることはできない。
同い年で、性格は真逆でありながら、真面目なヴィアッリと天才肌のマンチーニは互いに尊敬し合い、刺激を与え合って切磋琢磨。サンプドリアでは最強FWコンビとして名を馳せた。92年にいったんコンビは解消されるも、2018年にマンチーニがイタリア代表監督に就任した際には、アドバイザーとしてヴィアッリを招聘した。
すい臓がん罹患後は抗がん剤治療に入り、副作用に苦しんだヴィアッリを、彼の家族とともに支えてきたマンチーニ。EURO2020決勝、ウェンブリーでアズーリがPK戦の末にイングランドを下した後、涙ながらに抱き合う盟友2人の姿にイタリア国民は感動し、国内メディアからは「永遠の友情」と称えられたものだった。
先月、ヴィアッリは2019年10月から務めてきたイタリア代表団長を辞任し、ロンドンの王立マースデン病院に入院。そんな彼に、マンチーニが最後に会ったのは12月29日で、「力なく、声はあまり出なかったものの、思考はしっかりしていた」「我々はあらゆることについて話した。彼はアズーリに関するプロジェクトの進展を知りたがっていた」と明かしている。
ラツィオ時代のチームメイトだったシニシャ・ミハイロビッチが先月16日に白血病により53歳で亡くなった悲しみが癒えないなかで、さらなる衝撃を受けることとなったマンチーニだが、彼は、スポーツ紙『Corriere dello Sport』に対し、親友ヴィアッリの思い出や彼への想いを語った。
「シニシャとの別れから数日後、私はもうひとりの兄弟であり、私が好んで『弟』と呼んでいたジャンルカを亡くすことになってしまった。彼を弟と呼んでいたのは、16歳で出会って以来、互いに離れることがなかったからだ(誕生日はマンチーニが5か月ほど後)。イタリアのユース代表チーム、アズーリ、サンプドリアでの喜び、悲しみ、勝利と敗北。そして、ウェンブリーでの2つの夜……悲しみと苦しみで泣いたこともあれば、喜びで泣くこともあった」
「彼は、アズーリの欧州タイトル獲得に決定的な役割を果たした。選手たちは、彼を愛していた。それ以前に病魔と戦って克服していたジャンルカは、我々が知らなかった勇気を、チームにもたらしてくれた。彼は若者たちに、代表ユニホームの価値や、選手としての振る舞い方を理解させるのがとても上手かった。彼は若者たちと喜んで話し、彼らは大きな関心と敬意をもって彼の話を聞いていた。それはとても美しく、重要な瞬間だった」
「奇跡を願っていた。(最後に会った日)我々は話し、冗談を言い合った。彼はいつものように機嫌が良かったので、少し安心した。彼が穏やかであるのを見て、嬉しかった。我々は人生のほとんどを一緒に過ごしてきたし、たとえサッカーの面で分断されていたとしても、常に兄弟の絆を築いてきた。我々の友情は、大きな敬意と多大な愛情に基づいて、強いままだ。彼はいつも楽しくて陽気で、並外れたカリスマ性を持っていた」
「私は、彼がサンプドリアの会長になることを長い間望んでいた。彼なら、選手だった時のように、並外れた歴史の扉を開いたことだろう」と、もはや叶わぬ夢を明かしたマンチーニは、「ジャンルカは最高だった。完全なストライカーであり、完璧で、勇敢な男だった。彼の友人、サッカーと人生の両方でチームメイトになれたことは特権であり、光栄だった」と改めて語り、今後について「彼の力を借りながら、我々が生涯夢見てきたものを彼に捧げるために前進する」と誓った。
構成●THE DIGEST編集部
【関連記事】「クラブ史でも前代未聞」R・マドリーの“スペイン人ゼロ”に母国メディアは危機感! 「国家的な問題」という意見も
【関連記事】「まだ上に行かないといけない」ブライトン指揮官も評価を改めた三笘薫の急成長。末恐ろしい25歳の進化
【関連記事】「日本人はおかしい」――ジェフ時代に育成にも響いた指導者・オシムの凄み。日本サッカー界が忘れてはならない姿勢
そして、ヴィアッリといえば、生涯の親友であるロベルト・マンチーニを忘れることはできない。
同い年で、性格は真逆でありながら、真面目なヴィアッリと天才肌のマンチーニは互いに尊敬し合い、刺激を与え合って切磋琢磨。サンプドリアでは最強FWコンビとして名を馳せた。92年にいったんコンビは解消されるも、2018年にマンチーニがイタリア代表監督に就任した際には、アドバイザーとしてヴィアッリを招聘した。
すい臓がん罹患後は抗がん剤治療に入り、副作用に苦しんだヴィアッリを、彼の家族とともに支えてきたマンチーニ。EURO2020決勝、ウェンブリーでアズーリがPK戦の末にイングランドを下した後、涙ながらに抱き合う盟友2人の姿にイタリア国民は感動し、国内メディアからは「永遠の友情」と称えられたものだった。
先月、ヴィアッリは2019年10月から務めてきたイタリア代表団長を辞任し、ロンドンの王立マースデン病院に入院。そんな彼に、マンチーニが最後に会ったのは12月29日で、「力なく、声はあまり出なかったものの、思考はしっかりしていた」「我々はあらゆることについて話した。彼はアズーリに関するプロジェクトの進展を知りたがっていた」と明かしている。
ラツィオ時代のチームメイトだったシニシャ・ミハイロビッチが先月16日に白血病により53歳で亡くなった悲しみが癒えないなかで、さらなる衝撃を受けることとなったマンチーニだが、彼は、スポーツ紙『Corriere dello Sport』に対し、親友ヴィアッリの思い出や彼への想いを語った。
「シニシャとの別れから数日後、私はもうひとりの兄弟であり、私が好んで『弟』と呼んでいたジャンルカを亡くすことになってしまった。彼を弟と呼んでいたのは、16歳で出会って以来、互いに離れることがなかったからだ(誕生日はマンチーニが5か月ほど後)。イタリアのユース代表チーム、アズーリ、サンプドリアでの喜び、悲しみ、勝利と敗北。そして、ウェンブリーでの2つの夜……悲しみと苦しみで泣いたこともあれば、喜びで泣くこともあった」
「彼は、アズーリの欧州タイトル獲得に決定的な役割を果たした。選手たちは、彼を愛していた。それ以前に病魔と戦って克服していたジャンルカは、我々が知らなかった勇気を、チームにもたらしてくれた。彼は若者たちに、代表ユニホームの価値や、選手としての振る舞い方を理解させるのがとても上手かった。彼は若者たちと喜んで話し、彼らは大きな関心と敬意をもって彼の話を聞いていた。それはとても美しく、重要な瞬間だった」
「奇跡を願っていた。(最後に会った日)我々は話し、冗談を言い合った。彼はいつものように機嫌が良かったので、少し安心した。彼が穏やかであるのを見て、嬉しかった。我々は人生のほとんどを一緒に過ごしてきたし、たとえサッカーの面で分断されていたとしても、常に兄弟の絆を築いてきた。我々の友情は、大きな敬意と多大な愛情に基づいて、強いままだ。彼はいつも楽しくて陽気で、並外れたカリスマ性を持っていた」
「私は、彼がサンプドリアの会長になることを長い間望んでいた。彼なら、選手だった時のように、並外れた歴史の扉を開いたことだろう」と、もはや叶わぬ夢を明かしたマンチーニは、「ジャンルカは最高だった。完全なストライカーであり、完璧で、勇敢な男だった。彼の友人、サッカーと人生の両方でチームメイトになれたことは特権であり、光栄だった」と改めて語り、今後について「彼の力を借りながら、我々が生涯夢見てきたものを彼に捧げるために前進する」と誓った。
構成●THE DIGEST編集部
【関連記事】「クラブ史でも前代未聞」R・マドリーの“スペイン人ゼロ”に母国メディアは危機感! 「国家的な問題」という意見も
【関連記事】「まだ上に行かないといけない」ブライトン指揮官も評価を改めた三笘薫の急成長。末恐ろしい25歳の進化
【関連記事】「日本人はおかしい」――ジェフ時代に育成にも響いた指導者・オシムの凄み。日本サッカー界が忘れてはならない姿勢