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海外テニス

今年の男子テニス最終戦のグループ名に『東京』の文字が冠せられた“歴史的な理由”とは…【ATPファイナルズ】

内田暁

2020.11.21

節目の年を迎えた「ATPファイナルズ」が“ある理由で”2つの都市をラウンドロビンのグループ名に冠した。(C)Getty Images

節目の年を迎えた「ATPファイナルズ」が“ある理由で”2つの都市をラウンドロビンのグループ名に冠した。(C)Getty Images

 その大会は彼にとって、2つの意味で、忘れがたいものだという。

 一つ目の理由は、ケン・ローズウォールを破り優勝を決めた日が、彼の誕生日であったこと。

「ローズウォールとの試合の直前に、1万人の日本のファンが『ハッピーバースデイ』を歌ってくれたんだ」

 24歳の「ユニークな誕生日」を、彼は笑顔で回想した。

 もうひとつの忘れがたい理由は、大会最終日の翌日が、徴兵の招集日だったこと。

「12月15日が大会最終日で、16日が招集日だった。だから15日の試合が終わった直後の夜中に飛行機に飛び乗り、16日には米軍の訓練に参加したんだ」
 
 それから50年後の今年――。

 昨年のATPファイナルズ優勝者のステファノス・チチパスは、その人物から連想する言葉を問われると、「レジェンド。それから、シューズ」と即答した。

 スタン・スミス。

 彼こそが、1970年に東京で産声を上げた、ATPファイナルズの前身『ペプシ・グランプリ・マスターズ』の初代チャンピオンである。
 
 グランプリ・マスターズの発足は、単なる一大会の誕生にとどまらず、今のテニス界の本流を生む源泉だ。

 グランドスラムにプロ選手の参加が認められるようになった、いわゆる「オープン化」が成されたのが1968年のこと。ただオープン化当時は、“ワールド・チャンピオンシップ・テニス”と“ナショナル・テニス・リーグ”という2大組織が対立状態にあったため、トップ選手たちは、いずれかの組織とプロ契約を結ぶことを迫られた。

 その問題を解決すべく奔走したのが、サーブ&ボレーの名手として名を馳せたジャック・クレーマーである。第一線を退いた後はプロモーターとして活躍していたクレーマーは、両組織を統合する“グランプリ・シリーズ”を提唱した。

 大会での成績をポイントに換算して選手をランキング付けし、その上位8名にグランプリ・マスターズへの出場権を与えるという構想は、現在のATPツアーとファイナルズの原型だ。

 その記念すべき第1回大会が開催されたのが1970年であり、開催地となったのが、東京である。以降、15の都市を渡り歩いたこの大会は、50年目の今年、ロンドン開催の最後の年を迎えた。
 
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