3月9日に、砂漠のリゾート地で開幕したテニスのBNPパリバ・オープンでは、会場内の至るところで、淡いブルーと黄色のウクライナ国旗が、抜けるような青空の中ではためいている。
大会2日目にはその旗の下で、ウクライナ人のマルタ・コスチュクが、マリナ・ザネフスカ相手に3時間の死闘の末に勝利をもぎ取った。試合後、2人は固く抱擁を交わし、しばらくそのまま動かない。やがて短く言葉を交わすと、またお互いの肩に腕を回した。
ザネフスカは現在の国籍こそベルギーだが、数年前までウクライナ国旗の下にツアーを戦い、両親は今もウクライナに留まっている。
互いを励まし、悲しみを共有し、言葉と共に勇気を交わすかのような2人の姿に、その場にいた誰もが胸を詰まらせ、言葉にできぬ思いを拍手に込めた。
「ウクライナ人だけが、私の心境をわかってくれると思う。だからここに来たのは、私にとって良かったと思う。同じ苦しみを共有できる人たちといることが、何よりの助けになるから」
試合後のコスチュクは、同胞と交わした心の動きを、明確に言葉に置き換えていく。
まだ顔に幼さも残す19歳の毅然とした態度は、彼女が確固たる覚悟と目的を持って、この地に来たことを物語る。悲壮感を帯びた言葉の数々は、プレスルームの席に座る全員に……さらには、その向こうにいる世界中の人々に向けて、真っすぐに発せられていた。
ソビエト連邦崩壊直後にプロとなったテニス選手を母に持つコスチュクは、15歳からツアーやグランドスラムで活躍し、「マルチナ・ヒンギス以来の神童」と呼ばれてきた。
母や叔父の手ほどきを受け世界の54位に至った彼女は、ロシアが母国に侵攻した時、現在拠点とするモナコにいたという。ただ親族たちは、皆ウクライナに滞在。情報もまだ少なかった当初は、心配でろくに眠れぬ数日を過ごしたという。
「侵攻が始まってから最初の数日は、怖くて仕方なかった。私の家族はみんなウクライナの、同じ家にいた。何か起きたら、私は全ての家族を失うことになる。夜に寝て、翌朝起きたら家族がいなくなっているのではと思うのは、あまりに恐ろしい感覚だった」
やがて、現地での状況がわかるにつれ、少しずつ平静を取り戻せたという。
「慣れなくてはいけなかった。そうでなければ、頭がおかしくなりそうだった」。そうも彼女は述懐した。
母国が戦火に見舞われるなか、自分が何をすべきか考え決断することは、大きなストレスだったと明かす。
「この衝撃は言葉にしづらい。誰もが自分の考えを持っているだろうけれど、私はここに来ることに罪悪感を覚えていた。国の人々が戦うことを選んだ時、なぜ自分はここにいてテニスをやっているのか? ここの空は青くて、まぶしくて、穏やかで……それが私に、罪の意識を植え付けた」
大会2日目にはその旗の下で、ウクライナ人のマルタ・コスチュクが、マリナ・ザネフスカ相手に3時間の死闘の末に勝利をもぎ取った。試合後、2人は固く抱擁を交わし、しばらくそのまま動かない。やがて短く言葉を交わすと、またお互いの肩に腕を回した。
ザネフスカは現在の国籍こそベルギーだが、数年前までウクライナ国旗の下にツアーを戦い、両親は今もウクライナに留まっている。
互いを励まし、悲しみを共有し、言葉と共に勇気を交わすかのような2人の姿に、その場にいた誰もが胸を詰まらせ、言葉にできぬ思いを拍手に込めた。
「ウクライナ人だけが、私の心境をわかってくれると思う。だからここに来たのは、私にとって良かったと思う。同じ苦しみを共有できる人たちといることが、何よりの助けになるから」
試合後のコスチュクは、同胞と交わした心の動きを、明確に言葉に置き換えていく。
まだ顔に幼さも残す19歳の毅然とした態度は、彼女が確固たる覚悟と目的を持って、この地に来たことを物語る。悲壮感を帯びた言葉の数々は、プレスルームの席に座る全員に……さらには、その向こうにいる世界中の人々に向けて、真っすぐに発せられていた。
ソビエト連邦崩壊直後にプロとなったテニス選手を母に持つコスチュクは、15歳からツアーやグランドスラムで活躍し、「マルチナ・ヒンギス以来の神童」と呼ばれてきた。
母や叔父の手ほどきを受け世界の54位に至った彼女は、ロシアが母国に侵攻した時、現在拠点とするモナコにいたという。ただ親族たちは、皆ウクライナに滞在。情報もまだ少なかった当初は、心配でろくに眠れぬ数日を過ごしたという。
「侵攻が始まってから最初の数日は、怖くて仕方なかった。私の家族はみんなウクライナの、同じ家にいた。何か起きたら、私は全ての家族を失うことになる。夜に寝て、翌朝起きたら家族がいなくなっているのではと思うのは、あまりに恐ろしい感覚だった」
やがて、現地での状況がわかるにつれ、少しずつ平静を取り戻せたという。
「慣れなくてはいけなかった。そうでなければ、頭がおかしくなりそうだった」。そうも彼女は述懐した。
母国が戦火に見舞われるなか、自分が何をすべきか考え決断することは、大きなストレスだったと明かす。
「この衝撃は言葉にしづらい。誰もが自分の考えを持っているだろうけれど、私はここに来ることに罪悪感を覚えていた。国の人々が戦うことを選んだ時、なぜ自分はここにいてテニスをやっているのか? ここの空は青くて、まぶしくて、穏やかで……それが私に、罪の意識を植え付けた」