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国内テニス

「伊達公子/扉が開いた瞬間」日本女子テニス界の名手が明かす人生のターニングポイント<SMASH>

内田暁

2022.08.06

ライバルたちと切磋琢磨しながら力を付けていき、園田学園高に進学するとうっすらとプロの道も見えはじめたという(写真は1988年のインターハイ3冠達成時)写真:THE DIGEST 写真部

ライバルたちと切磋琢磨しながら力を付けていき、園田学園高に進学するとうっすらとプロの道も見えはじめたという(写真は1988年のインターハイ3冠達成時)写真:THE DIGEST 写真部

 かくして「たまたま」通いはじめたテニスクラブには、オーストラリアテニスに感銘を受けた竹内穣治という名伯楽が居て、伊達の一歳年長には、竹内が育てた“天才少女”の木戸脇真也が居た。なお穣治氏の息子で当時既にプロとして活動していたのが、竹内映二。後に伊達公子のコーチをつとめ、現在も日比野菜緒に帯同する日本屈指のツアーコーチである。
 
 そのような名門テニスクラブにおける伊達の位置づけは、本人曰く「劣等生」だった。

「四ノ宮は山を削って作ったクラブで、山の上に2面、下に一面、コートがあるんです。上に行くほど、強い選手。わたしも強化選手に入っていたんですが、なかなか上にいけない。たまに上のコートに呼ばれるけれど、またすぐ下に落とされる。木戸脇さんのような強い子は、常に上。わたしは基本、下のコートでした」

 山の斜面に施工されたコートの高度が、選手のヒエラルキーをも可視化する、ある意味での実力主義。指導方針は「選手の自主性に任せる」というテニスクラブにおいて、下のコートは放任状態だったという。

 ただ、当時を回想する伊達の言葉が結ぶ像は、細い手足をしならせて野山を駆け、自由を謳歌する、明るく活発な「自然児」だ。

「ときどき田んぼに遊びに行ったり、スーパーに行って家では食べられないお菓子を買ったり。下のコートで総当たり戦などをやっている時は、コーチもあまり見てなかったと思います」

 とはいえ「放任」状態においても、一本芯の通った指導指針はある。

「とにかく練習は、ネットプレーが中心。木戸脇さんや(竹内)映二さんがいたこともあり、譲治先生の視線は常に世界を向いていたと思います。『ネットプレーをやらなくてはダメだ、世界に行くにはそれが必要だ』という方針でした」

 もっともそのネットプレーにしても、当時の彼女に「強くなるにはこれが必要だ、との思いは、一切なかった」という。無自覚に磨いた武器の効力に彼女自身が気付くのは、さらに数年後のことである。
 
 生まれ育った環境や年齢が近いがために、ともに歩んだ友人やライバルも、やがては人生の「分かれ道」へと至るのは世の摂理だろう。

「京都の4人組」にも、そんな時が訪れた。

 それが、高校進学。

 京都で常に上位を占めた少女たちの下には、兵庫県神戸のスポーツ名門校、夙川高校から推薦入学の声が掛かった。もちろん、伊達もその一人。だが彼女は、その道を選ばなかった。 

「わたしは寮生活に憧れていたので、寮がある高校が良かった。それに京都のみんなが夙川に行くので、またずっと一緒にやるのも嫌だったし……」

 劣等生だったので――と彼女は、笑って加える。

 家を出て、京都を出て、いつもの顔ぶれから抜け出して……そうして新たな環境を求めた彼女は、兵庫県尼崎市の園田学園への進学を望んだ。

 とはいえ、同校から推薦をもらえたわけではない。そこで竹内譲治の助力を求めるが、伊達の即プロ転向を望んでいた竹内には、「そんなところに行くか!」とけんもほろろに断られた。

「困ったな」と途方に暮れた彼女に、手を差し伸べてくれたのは、最初に通っていたテニスクラブのオーナーである。そこで連れたって園田学園に足を運ぶが、高校テニス部の監督である光國彰氏は、伊達のことを知らなかった様子。ただ、伊達を知っていた大学の監督が「オッケーと言ってくれた」ために、なんとか推薦入学へとこぎつけた。

「そこも大きな転機でしたね。流されて夙川に行っていたら、今の自分は無かったですね、たぶん」

 彼女がポツリと、そう言った。
 
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