イラコテニスカレッジでの日々は、「毎日がサバイバルだった」と述懐する。
「イラコテニスカレッジは上下関係がしっかりしていて、生徒の中にリーダーとサブリーダーがいる。その二人が他の子どもたちをまとめるなかで、敬語を学び、その人たちに怒られないようにし、さらに先生に怒られないようにキチキチっと、小さい頃からしつけられてきたと思います。道具を片付けたり運ぶことも、上の子たちが指示を出し、小さい子たちも全員やる」
上下関係が厳格で「口答えは許されない」ような風潮は、ともすると、子どもたちの自主性を奪うと想像しがちだ。ところが神尾はむしろ、「頭を養えた」と回想する。
「それは今でも、とても不思議に思うんです。私はロボットのように育ったのに、テニスのゲームを戦う脳はある。来たボールを打てって言われて育ったのに、ゲームを考える頭はあった。
ロボットのように練習して武器を獲得したけれど、それをどう使うかは、すごく考えながら育ってきたのかな……」。
神尾は「不思議だ」と言うが、それは集団生活の中で「どうサバイブするか」を日々考えたからこそ、自然と習得した力だろう。
「そうですね、基本的に怒られるのは嫌だから、やっぱり人の目を見ていました。先生や先輩の目を見て、怒られるより先に自分からチョコチョコっと動いたり。どこにコーチがいるかも練習中もちゃんと見たりと、すごくアンテナは張っていましたね」
神尾曰く「すごく飴と鞭の使い方が上手かった」伊良子氏は、子どもたちが目指すべき先を示し、モチベーションを上げる能力も高かったようだ。神尾にとって印象深い伊良子氏の“指導法”に、次のような思い出がある。
「中学の3年間は、先生に連れられて試合をよく見に行きました。それも一般の大会の決勝戦を見に行くんです。なぜかというと、表彰式での優勝者と準優勝者の差を見せるんですよ。準優勝者はプレートだけで、インタビューは無い。優勝者はプレートを受け取り副賞ももらって、インタビューや写真撮影もある。
決勝戦に勝ち上がれるのは2人でどちらも凄いのに、輝かしい優勝者と、ポツンと取り残された準優勝。その様子を見せながら先生は『どっち?』って聞いてくるんです。それを繰り返します。何試合も見に行き、そのたびに聞かれるんです。あなたはどっちになりたいの、と」
勝負の世界にどうしようもなく付きまとう、勝者と敗者のコントラスト。多くの選手が参戦する中、最後に勝者となるのは一人というテニスの残酷な現実をも、神尾は記憶と感情に刻み付けた。
彼女が「国内大会で決勝に出た時は、ほとんど負けていない」のは、そのような原体験ゆえだろう。
高校生の時に突発性難聴を発症したこともあり、卒業後は嘱託社員としてキャリアをスタートした彼女は、最終的には世界の24位に達した。
何が彼女を、その地位まで至らせたのか――?
その問いに神尾は、「我慢」そして「覚悟」だと言った。
「負けても負けても、戦う我慢ができた。負けた時に、なぜ負けた? 何が足りない? と常に次を考えて行動して生活してきたのが一番だと思います。
私はジュニアの戦績も無かったし、ブリヂストンさんも『この子は結果が出るのに時間が掛かるよ』ということで、最初の2年が嘱託契約、3年目からはプロ契約で計5年間、お世話すると言ってくださった。その約束の5年が過ぎ、『この5年間でやってきたことを全部出すぞ』と覚悟してスタートした1年が、一番成績が良かったんです」
コーチや応援してくれる人々と感情を交わし、信頼関係を築き、そして感謝の思いをコート上で発揮する——それが神尾にとってのテニスだった。
そして今、彼女は自らがコーチとして、本玉真唯らと感情のラリーを交わしている。
取材・文●内田暁
神尾米/1971年11月22日生まれ。神奈川県出身。右利き/左右両手打ち。グランドスラムでは1995年に全豪オープン・ウインブルドン・全米オープンの3大会で3回戦へ進出。1997年2月の「全日本室内テニス選手権」優勝を最後に25歳で現役を引退。キャリアハイはシングルス世界24位・ダブルス同65位。現在は試合中継の解説やジュニア選手育成活動にも携わっている。
【PHOTO】本玉真唯のリズムを重視したサービス、ハイスピードカメラによる『30コマの超分解写真』
「イラコテニスカレッジは上下関係がしっかりしていて、生徒の中にリーダーとサブリーダーがいる。その二人が他の子どもたちをまとめるなかで、敬語を学び、その人たちに怒られないようにし、さらに先生に怒られないようにキチキチっと、小さい頃からしつけられてきたと思います。道具を片付けたり運ぶことも、上の子たちが指示を出し、小さい子たちも全員やる」
上下関係が厳格で「口答えは許されない」ような風潮は、ともすると、子どもたちの自主性を奪うと想像しがちだ。ところが神尾はむしろ、「頭を養えた」と回想する。
「それは今でも、とても不思議に思うんです。私はロボットのように育ったのに、テニスのゲームを戦う脳はある。来たボールを打てって言われて育ったのに、ゲームを考える頭はあった。
ロボットのように練習して武器を獲得したけれど、それをどう使うかは、すごく考えながら育ってきたのかな……」。
神尾は「不思議だ」と言うが、それは集団生活の中で「どうサバイブするか」を日々考えたからこそ、自然と習得した力だろう。
「そうですね、基本的に怒られるのは嫌だから、やっぱり人の目を見ていました。先生や先輩の目を見て、怒られるより先に自分からチョコチョコっと動いたり。どこにコーチがいるかも練習中もちゃんと見たりと、すごくアンテナは張っていましたね」
神尾曰く「すごく飴と鞭の使い方が上手かった」伊良子氏は、子どもたちが目指すべき先を示し、モチベーションを上げる能力も高かったようだ。神尾にとって印象深い伊良子氏の“指導法”に、次のような思い出がある。
「中学の3年間は、先生に連れられて試合をよく見に行きました。それも一般の大会の決勝戦を見に行くんです。なぜかというと、表彰式での優勝者と準優勝者の差を見せるんですよ。準優勝者はプレートだけで、インタビューは無い。優勝者はプレートを受け取り副賞ももらって、インタビューや写真撮影もある。
決勝戦に勝ち上がれるのは2人でどちらも凄いのに、輝かしい優勝者と、ポツンと取り残された準優勝。その様子を見せながら先生は『どっち?』って聞いてくるんです。それを繰り返します。何試合も見に行き、そのたびに聞かれるんです。あなたはどっちになりたいの、と」
勝負の世界にどうしようもなく付きまとう、勝者と敗者のコントラスト。多くの選手が参戦する中、最後に勝者となるのは一人というテニスの残酷な現実をも、神尾は記憶と感情に刻み付けた。
彼女が「国内大会で決勝に出た時は、ほとんど負けていない」のは、そのような原体験ゆえだろう。
高校生の時に突発性難聴を発症したこともあり、卒業後は嘱託社員としてキャリアをスタートした彼女は、最終的には世界の24位に達した。
何が彼女を、その地位まで至らせたのか――?
その問いに神尾は、「我慢」そして「覚悟」だと言った。
「負けても負けても、戦う我慢ができた。負けた時に、なぜ負けた? 何が足りない? と常に次を考えて行動して生活してきたのが一番だと思います。
私はジュニアの戦績も無かったし、ブリヂストンさんも『この子は結果が出るのに時間が掛かるよ』ということで、最初の2年が嘱託契約、3年目からはプロ契約で計5年間、お世話すると言ってくださった。その約束の5年が過ぎ、『この5年間でやってきたことを全部出すぞ』と覚悟してスタートした1年が、一番成績が良かったんです」
コーチや応援してくれる人々と感情を交わし、信頼関係を築き、そして感謝の思いをコート上で発揮する——それが神尾にとってのテニスだった。
そして今、彼女は自らがコーチとして、本玉真唯らと感情のラリーを交わしている。
取材・文●内田暁
神尾米/1971年11月22日生まれ。神奈川県出身。右利き/左右両手打ち。グランドスラムでは1995年に全豪オープン・ウインブルドン・全米オープンの3大会で3回戦へ進出。1997年2月の「全日本室内テニス選手権」優勝を最後に25歳で現役を引退。キャリアハイはシングルス世界24位・ダブルス同65位。現在は試合中継の解説やジュニア選手育成活動にも携わっている。
【PHOTO】本玉真唯のリズムを重視したサービス、ハイスピードカメラによる『30コマの超分解写真』