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国内テニス

「伊達公子/扉が開いた瞬間」日本女子テニス界の名手が明かす人生のターニングポイント<SMASH>

内田暁

2022.08.06

かつて世界4位まで上り詰めた伊達公子氏のテニス人生には、ジュニア時代を含めて様々なターニングポイントがあったという。写真:THE DIGEST 写真部

かつて世界4位まで上り詰めた伊達公子氏のテニス人生には、ジュニア時代を含めて様々なターニングポイントがあったという。写真:THE DIGEST 写真部

 女子テニスの「WTAツアー」でトップ50位内に入った実績を持つ日本人8名が、その経験値をジュニア世代に還元するために立ち上げた一般社団法人『Japan Women’s Tennis Top50 Club』(JWT50)。そのメンバーがリレー形式でキャリアの分岐点を明かす『扉が開いた瞬間』。第1回は、JWT50の理事を務める、元世界4位の伊達公子氏が登場。彼女のターニングポイントについて話を聞いた。

     ◆    ◆    ◆

「初めて試合に出たのは8歳の時。京都のいわゆるローカル大会で、その時が3位。最初から3位。その後も最低3位で、最高でも2位」

 “世界の伊達公子”が、真顔で言う。

 謙遜ではない。大げさでもない。それが少女時代の、過不足なしの伊達公子だというのだ。

 幼少期から「負けず嫌い」だった彼女がテニスに出会ったのは、「3位」が悔しくて泣いた8歳の日から、2年ほど遡った時のこと。両親が通いはじめた会員制のテニスクラブに、連れられていったのが始まりだった。

 活発で外で遊ぶのが好きな少女にとって、テニスクラブは、「遅くまでいても怒られない遊び場」だったという。

「公園に遊びに行ったら、母親から『5時までに帰ってきなさい』って言われるのに、テニスだったら親も一緒だから言われない。学校の同級生もいたし、山にも遊びに行けたし。門限がないので、公園に行くよりテニスクラブに行く方が楽しかったんです」

 その時から40年以上経った今でも、当時を回想する彼女の顔には無垢な笑みが広がる。山の梺にある、テニスコート2面の小さなクラブ。そこで両親がボールを打つ間、公子少女は山を駆け、時にはコートに立ち、会員の大人たちと戯れにボールを打つようになる。

 その姿が、周囲の人やクラブ関係者たちの目に、とても楽しそうに映ったのだろう。

「よければ、子どものクラスに入ったら?」

 そんな声に誘われて、彼女はラケットを手に取った。この選択が彼女の人生に、そして日本のテニス史に甚大な影響を及ぼすことなど、誰も想像できない日のことである。
 
 最低3位、最高でも2位――。

 そんな伊達公子の“キャリアの座標”は、彼女がテニスを始めた京都という土地に由来する。

「私も含めた“京都の4人組”が居て、8歳以下から中学3年まで、テニスクラブこそ2つに分かれていたけど試合会場ではいつも一緒だったんです。ずっと、ずーっと」

 地縁という環境は、子どもの世界を規定する。全体としては上位に属するが、自分の上には常に追うべき二人がいる……あくまで結果論ではあるが、彼女が置かれたその立ち位置は、モチベーションを駆り立てるには最適だったのかもしれない。

 もう一つ、環境に導かれた転換期が、小学6年生時に訪れる。それは引っ越しという、親の都合によってもたらされた。

「滋賀県に家が移ったので、四ノ宮テニスクラブに通うようになったんです。良いクラブだと聞いたからではなく、家から通える近いクラブが、たまたまそこだったから」
 
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