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セナとレース哲学をぶつけ合った“フライング・スコット” F1最多勝記録を長く守り続けたジャッキー・スチュワート【名ドライバー列伝】

甘利隆

2021.02.20

タータンチェックの出で立ちがトレードマークのスチュワートは、レースの安全性についてもこだわりを見せた。(C)Getty Images

 2021年、ホンダの名を冠したパワーユニットのラストイヤーを戦うレッドブル・レーシングは、2004年11月にジャガー・レーシングを買収することで産声を上げた。そのジャガーも元々は往年の名ドライバー、ジャッキー・スチュワートが創設したスチュワート・レーシングを引き継ぐ形で誕生したチームだ。

"ジャッキー"こと"サー・ジョン・ヤング・スチュワート"は、1939年、スコットランドで産まれた。

 1965年にBRMからF1にデビューすると瞬く間に才能を発揮。1968年マトラに移籍し、翌1969年に初めてのワールドチャンピオンに輝く。その後も1971年、1973年と計3回タイトルを獲得した。

 引退までに積み重ねた通算27勝は、1987年にアラン・プロストに更新されるまで、史上最多勝記録を長きにわたって守り続けた。また、1972年に大英帝国勲章、2001年にナイトの称号を受けている。

 1シーズンあたりのレース数が増えた現代F1の基準で見ればそれほど多い数字ではないが、勝率27.27%は歴代6位。プロストの25.62%、アイルトン・セナの25.47%を上回っている。当時はフェラーリなど、ごく一部のコンストラクターを除き、フォード・コスワースDFVのエンジン、ヒューランドのトランスミッションを採用しており、自動車メーカーが注力した特定のチームでなければ表彰台すらおぼつかない現在と異なり、マシンの競争力が拮抗した中での数字だけにその価値は高い。

 傑出した成績もさることながら"サー・ジャッキー・スチュワート"を特別な存在たらしめるているのは、徹底したプロフェッショナリズムとレース哲学だ。時にドライバーの権利を主張し、安全性について強く訴えた。その姿勢は、後に続くニキ・ラウダやプロストといったチャンピオンたちに大きな影響を与えた。
 
 引退後、スチュワートの持つレース哲学が明確に示されたシーンとして有名なのは、1990年のオーストラリアGPでのセナとの対談だ。前戦の日本GPでプロストと接触し、2度目のタイトルを決めた若きブラジリアンと、レースの安全性について互いの考え方をぶつけ合った。

 セナは数多くの名言を残しているが、"I am not designed to come second or third. I am designed to win.(2位や3位になるためじゃない。僕は勝つために存在しているんだ。)"は、この時に産まれたものだ。

 スチュワートが現役時代のF1マシンは、カーボンモノコックで守られた現代のマシンに比べ、安全性が低く、同胞の伝説的チャンピオン、ジム・クラークや死後にタイトルが確定したヨッヘン・リントなど、レースで命を落とすドライバーも少なくなかった。自身も大雨に見舞われた1966年のベルギーGPでマシンに閉じ込められ、命の危険を感じた経験があったが故に"隙間があればアタックする"というセナのドライビングスタイルとは相容れない哲学があったのだろう。

 3度目の戴冠を果たした1973年、F1参戦100レース目を花道に引退を予定していたが、そのアメリカGPの予選で弟分として可愛がり、女優のブリジット・バルドーとも浮き名を流したチームメイトのフランソワ・セベールが死亡。レースへの出走を取りやめ、そっとヘルメットを置いた。

 引退に際し、残した言葉がある。
「私は、1滴の血も流さずレースを引退できることを誇りに思う」

文●甘利隆
著者プロフィール/東京造形大学デザイン科卒業。都内デザイン事務所、『サイクルサウンズ』編集部、広告代理店等を経てフリーランス。Twitter:ama_super

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