―今振り返ると大学の4年間はどんな時間でしたか。
入学した当初は4年生の秋の早慶戦までが野球ができるリミットだと思い、その後は社会人野球に行くか、またはプロ野球界に指名されるという2択しかありませんでした。ですから4年生の11月までの逆算で時間の使い方をどう考えていくのか、それを勉強することができた4年間だったと思います。あとは、部員が150人、200人いる環境だったので、組織の中でどうやれば自分が選ばれるのかを自然と考えながら身につけることができた4年間だったと思います。
―田中さんは、卒業後の選択肢が幅広かった分、逆に選ぶまでの苦しさもあったのではないですか。
選べる状況で良かったねとよく言われるんですけど、実は苦しかったです。ずっと野球と向き合ってきた人生だったので、これで野球を諦めていいのか、このまま逃げていいのかと考え続けていました。父は野球を続けるものだと思っていたので、フジテレビの内定をもらったことは父には話していませんでした。
―その中でも、自分で決めたことだから意志を貫けたという思いがあるのでしょうか。
相談しても参考にはなるけど答えは出ません。結局自分が決めることになります。だから、決めるまでが一番怖いんですよ。決めて一歩踏み出してしまえばノイズはそぎ落とされてそこに向かうしかなくなるので、決めて一歩を踏み出せるかどうかが一番大事です。
―最終的にフジレテビに入ったのは何が決め手でしたか。
それまで慶応義塾の野球部である程度試合に出ていた学生からアナウンサーになった人がいなかったし、東京六大学の野球部からフジテレビのアナウンサーになった人がいなかったからです。同じ松坂世代で元日本テレビの上重聡さんがいますが、今までなかった道であえて勝負しに行こうと思ったのが最終的な決断でした。
―アナウンサーになる方は学生時代から専門学校に行ってダブルスクールでトレーニングしてきた人が多いと思います。野球に打ち込んできた田中さんにとって最初は大変だったのではないでしょうか。
僕の同期は男性一人、女性三人でしたが、フジテレビ系列局の新人2、30人がお台場に集まって受けた最初の研修ではアナウンサーを目指してきた皆さんのスキルがあまりにも高く、すべてに衝撃を受けました。僕はまだ関西弁でしたし、原稿なんて読んだことがなかったので、2、3年後はクビになってやめるんだろうなと思ったのが正直なところでしたね。
―自信を得たきっかけはありましたか。
1年目は夜遅い時間に短いニュースを読む毎日で、アナウンス室や会議室で実況練習をするのが僕の仕事でした。その中で「とくダネ!」の小倉智昭さんに出会い、「番組は野球と一緒。補欠がいてレギュラーがいて1年生、2年生、3年生がいて4年生がいて、試合をするレギュラーがいる。番組もADさんがいて、タイムキーパーがいてディレクターがいて、チーフディレクターがいてプロデューサーがいて、最後に勝負するのは俺らの役。大学でそのピラミッドを自然と経験できたのは良かったよね。それは必ずアナウンサーとしての役割に生きてくるから、怖がらずに勝負しなさい」と言われたのがすごく大きかったです。それまでの僕は場違いなところに来てしまったのかもしれないと思っていたのですが、それを払拭してくれました。
―スポーツのアナウンスをする中で大切にしてきたことはありますか。
僕の場合、声がいいわけでもないですし、滑舌がいいわけでもないので、とにかく嘘をつかない、背伸びはしない、自分という人間をそのまま出すしかないのだということを心掛けていました。アナウンスの基礎を徹底的に鍛えて、基礎ができるまでは野球をやってきたという自分の武器は出さないことを決めていました。
―2018年にフジテレビを退社された理由を聞かせていただけますか。
2015年ごろからネット配信メディアが出てきたことでリアルタイムに皆さんがスポーツの結果を手軽に知るようになって、テレビの情報は遅れて伝わるようになりました。その時に考えたのは、自分がやってきた実況などのスキルを活かせるのは地上波というプラットフォームに限らないということでした。
配信事業社などの新しいメディアが大きくなっていけばいずれはテレビと協業するようになると思っていたので、ならテレビのスキルを持った人間が先にそちらへ行ってやっていこうじゃないか。それはテレビを含めたメディア全体の新しいやり方になってくるし、スポーツ中継やスポーツ番組を救う形になるのではないかと思ったのです。
―これからの目標を聞かせてください。
会社を経営する立場となって、自分に携わってくださる人たちの目標や夢をどれだけ自分がサポートして成就させてあげるかが目標です。
入学した当初は4年生の秋の早慶戦までが野球ができるリミットだと思い、その後は社会人野球に行くか、またはプロ野球界に指名されるという2択しかありませんでした。ですから4年生の11月までの逆算で時間の使い方をどう考えていくのか、それを勉強することができた4年間だったと思います。あとは、部員が150人、200人いる環境だったので、組織の中でどうやれば自分が選ばれるのかを自然と考えながら身につけることができた4年間だったと思います。
―田中さんは、卒業後の選択肢が幅広かった分、逆に選ぶまでの苦しさもあったのではないですか。
選べる状況で良かったねとよく言われるんですけど、実は苦しかったです。ずっと野球と向き合ってきた人生だったので、これで野球を諦めていいのか、このまま逃げていいのかと考え続けていました。父は野球を続けるものだと思っていたので、フジテレビの内定をもらったことは父には話していませんでした。
―その中でも、自分で決めたことだから意志を貫けたという思いがあるのでしょうか。
相談しても参考にはなるけど答えは出ません。結局自分が決めることになります。だから、決めるまでが一番怖いんですよ。決めて一歩踏み出してしまえばノイズはそぎ落とされてそこに向かうしかなくなるので、決めて一歩を踏み出せるかどうかが一番大事です。
―最終的にフジレテビに入ったのは何が決め手でしたか。
それまで慶応義塾の野球部である程度試合に出ていた学生からアナウンサーになった人がいなかったし、東京六大学の野球部からフジテレビのアナウンサーになった人がいなかったからです。同じ松坂世代で元日本テレビの上重聡さんがいますが、今までなかった道であえて勝負しに行こうと思ったのが最終的な決断でした。
―アナウンサーになる方は学生時代から専門学校に行ってダブルスクールでトレーニングしてきた人が多いと思います。野球に打ち込んできた田中さんにとって最初は大変だったのではないでしょうか。
僕の同期は男性一人、女性三人でしたが、フジテレビ系列局の新人2、30人がお台場に集まって受けた最初の研修ではアナウンサーを目指してきた皆さんのスキルがあまりにも高く、すべてに衝撃を受けました。僕はまだ関西弁でしたし、原稿なんて読んだことがなかったので、2、3年後はクビになってやめるんだろうなと思ったのが正直なところでしたね。
―自信を得たきっかけはありましたか。
1年目は夜遅い時間に短いニュースを読む毎日で、アナウンス室や会議室で実況練習をするのが僕の仕事でした。その中で「とくダネ!」の小倉智昭さんに出会い、「番組は野球と一緒。補欠がいてレギュラーがいて1年生、2年生、3年生がいて4年生がいて、試合をするレギュラーがいる。番組もADさんがいて、タイムキーパーがいてディレクターがいて、チーフディレクターがいてプロデューサーがいて、最後に勝負するのは俺らの役。大学でそのピラミッドを自然と経験できたのは良かったよね。それは必ずアナウンサーとしての役割に生きてくるから、怖がらずに勝負しなさい」と言われたのがすごく大きかったです。それまでの僕は場違いなところに来てしまったのかもしれないと思っていたのですが、それを払拭してくれました。
―スポーツのアナウンスをする中で大切にしてきたことはありますか。
僕の場合、声がいいわけでもないですし、滑舌がいいわけでもないので、とにかく嘘をつかない、背伸びはしない、自分という人間をそのまま出すしかないのだということを心掛けていました。アナウンスの基礎を徹底的に鍛えて、基礎ができるまでは野球をやってきたという自分の武器は出さないことを決めていました。
―2018年にフジテレビを退社された理由を聞かせていただけますか。
2015年ごろからネット配信メディアが出てきたことでリアルタイムに皆さんがスポーツの結果を手軽に知るようになって、テレビの情報は遅れて伝わるようになりました。その時に考えたのは、自分がやってきた実況などのスキルを活かせるのは地上波というプラットフォームに限らないということでした。
配信事業社などの新しいメディアが大きくなっていけばいずれはテレビと協業するようになると思っていたので、ならテレビのスキルを持った人間が先にそちらへ行ってやっていこうじゃないか。それはテレビを含めたメディア全体の新しいやり方になってくるし、スポーツ中継やスポーツ番組を救う形になるのではないかと思ったのです。
―これからの目標を聞かせてください。
会社を経営する立場となって、自分に携わってくださる人たちの目標や夢をどれだけ自分がサポートして成就させてあげるかが目標です。




