実績のある選手ではあった。だが、日本のファンの感覚は、“無名のベテランがオールKO優勝した”というものだった。これでK-1という大会のイメージ、流れは決定付けられた。
すなわち、何が起こるか分からない厳しい勝負の場。いくら人気があっても知名度があっても、ファンの後押しがあっても、勝てるかどうかは実力次第。その厳しさにこそ、ある種の中毒性があった。それを体現したのが、シカティックだった。
その後、K-1グランプリ第2回大会では、準決勝で佐竹にリベンジを許した。しかしホーストとの再戦でまたもKO勝ちを収めたシカティックは、PRIDEで総合格闘技に挑んだ。もっとも、トータルで見れば、日本での彼の試合数は決して多くはない。だが、あのオールKO優勝劇があったからこそ、ビッグイベントとしてのプロ格闘技は軌道に乗った。
K-1のスタートと同じ1993年には、パンクラスとUFCも旗揚げしている。つまりシカティックの“伝説の拳”は、格闘技における時代の幕開けを告げる号砲でもあった。
時代はめぐって2017年、シカティックは新生K-1にセコンドとして来日。愛弟子のアントニオ・プラチバット(クロアチア)が初代ヘビー級王座決定トーナメントに出場したためだ。このとき、プラチバットは師匠に続いて優勝を果たしている。
格闘技史のドラマを紡いだシカティックは、愛弟子の戴冠劇を見送った翌年から闘病生活に入り、2020年に世を去った。65歳の早すぎる死。もう彼の姿を見ることはできなくなってしまった。だが、1993年の衝撃は、永遠に色褪せることはない。
文●橋本宗洋
すなわち、何が起こるか分からない厳しい勝負の場。いくら人気があっても知名度があっても、ファンの後押しがあっても、勝てるかどうかは実力次第。その厳しさにこそ、ある種の中毒性があった。それを体現したのが、シカティックだった。
その後、K-1グランプリ第2回大会では、準決勝で佐竹にリベンジを許した。しかしホーストとの再戦でまたもKO勝ちを収めたシカティックは、PRIDEで総合格闘技に挑んだ。もっとも、トータルで見れば、日本での彼の試合数は決して多くはない。だが、あのオールKO優勝劇があったからこそ、ビッグイベントとしてのプロ格闘技は軌道に乗った。
K-1のスタートと同じ1993年には、パンクラスとUFCも旗揚げしている。つまりシカティックの“伝説の拳”は、格闘技における時代の幕開けを告げる号砲でもあった。
時代はめぐって2017年、シカティックは新生K-1にセコンドとして来日。愛弟子のアントニオ・プラチバット(クロアチア)が初代ヘビー級王座決定トーナメントに出場したためだ。このとき、プラチバットは師匠に続いて優勝を果たしている。
格闘技史のドラマを紡いだシカティックは、愛弟子の戴冠劇を見送った翌年から闘病生活に入り、2020年に世を去った。65歳の早すぎる死。もう彼の姿を見ることはできなくなってしまった。だが、1993年の衝撃は、永遠に色褪せることはない。
文●橋本宗洋