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格闘技・プロレス

格闘家のイメージを一新した魔裟斗。“革命”を起こしたカリスマの意外な一面「休む勇気がついた――」【K-1名戦士列伝】

橋本宗洋

2022.01.24

中量級の選手たちにスポットライトが当たるようになっていったのは、魔裟斗のカリスマ的パフォーマンスがあってこそだった。写真:産経新聞社

中量級の選手たちにスポットライトが当たるようになっていったのは、魔裟斗のカリスマ的パフォーマンスがあってこそだった。写真:産経新聞社

 1990年代から2000年代初頭、日本では現在を上回るほどの“格闘技ブーム”があった。リードしたのは、立ち技イベント「K-1」。その個性豊かなファイターたちの魅力を振り返る。

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 今から20年前の2002年は格闘技界に“革命”が起きた年だった。

 この年の8月、K-1とPRIDEのトップ選手たちが出場した国立競技場でのメガイベント『Dynamite!』が開催。約9万人を動員し、90年代から続く格闘技ブームのひとつの頂点となった。

 そしてもうひとつ、格闘技の流れを変える出来事があった。K-1中量級イベントが始まったのだ。その主役というべき存在が魔裟斗だった。

 2002年2月11日にK-1の新たなイベントとして『K-1 WORLD MAX』が産声を上げた。中量級=70kgを中心とした同大会の第1回は日本トーナメントだった。中継はTBS。ここから、それまでは世間的に無名だった選手たちが表舞台で実力と魅力を発揮することになっていった。

 第1回目のトーナメントで優勝した魔裟斗は、過去の格闘家のイメージを一新する選手だった。見た目からして無骨な体育会系というよりはイマドキの若者。ファッションにも気を使うし、モテたい、稼ぎたいと、彼はハッキリと口にした。

「野球やサッカーに負けないくらい凄いことやってるんだから、収入でも負けたくない」

 K-1以前からそう言って、常に結果を残してきたのが魔裟斗だった。

 2002年5月の世界トーナメントでは、準決勝で日本初登場のアルバート・クラウスにダウンを奪われて敗北。悔し涙を流す姿も印象的だった。態度も言葉もファイトスタイルも強気なのが魔裟斗の魅力だったからだ。だが、彼の敗戦によってファンは、“魔裟斗も絶対的なトップではない”と痛感。それによってK-1中量級の世界観はより大きくなった。

 劇的だったのは、翌年の世界トーナメントで優勝を果たしたことだ。前年の悔しさもあり、会場のムードは“大爆発”と言っても過言ではなかった。しかも決勝では、因縁のクラウスをKO。会場はさいたまスーパーアリーナ。K-1 MAXはわずか1年あまりで代々木第二体育館の数倍という規模のイベントになっていた。

 たしか優勝後のインタビューである。魔裟斗は筆者にこう語っている。

「練習しすぎず、休むことを覚えたのがよかった。休む勇気がついた」

 逆に言えば、それくらい魔裟斗は“練習の虫”だった。ライバル的存在だった小比類巻貴之が「ミスター・ストイック」と呼ばれていたため、当時は対照的な個性だと思われていたのだが、こと練習への熱心さでは誰にも負けないほど。意外と思われるかもしれないが、多くの関係者がそれを賞賛している。
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