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世紀の一戦は新旧名手が揃った「三強」対決――。『花の15期生』柴田政人はウイニングチケットと頂へ【日本ダービー列伝/前編】

三好達彦

2023.05.26

 話は1960年代の後半までさかのぼる。当時はまだJRAの競馬学校はなく、東京都世田谷区の馬事公苑にある「騎手養成長期課程」がその役目を負っていた。

 1964年にそこの門をくぐった騎手の卵たちのなかには、9年連続でリーディングジョッキーに輝いて天才と称されるようになる福永洋一、シンボリルドルフで無敗の三冠制覇という大偉業を達成する岡部、GⅠ級レースを2勝する伊藤正徳、そして80年代に入ってからビッグレースを次々に制する柴田。稀に見る達者が揃ったこの世代は、騎手養成長期課程の期数をもとに『花の15期生』と呼ばれるようになった。

『花の15期生』の面々は、前述したように「日本ダービーを勝つこと」を至上の目標とした世代である。この4人のうち、伊藤は1977年にラッキールーラーで優勝し、ダービー制覇に一番乗りとなった。岡部は1984年にシンボリルドルフで勝利を収めた。福永は1979年に不運にも落馬事故に遭い、ダービー制覇の夢を果たせぬまま現役から退いた。

 柴田は1985年にミホシンザンで皐月賞と菊花賞の二冠を獲るが、2着を5馬身も突き放した皐月賞のレース中に発症していたのであろう骨折によって、日本ダービーへの出走は叶わなかった。不運としか言いようのない天の悪戯だった。
 
 1993年に話を戻す。ビワハヤヒデは年明け初戦の共同通信杯4歳ステークス(GⅢ)で2着に競り負けたことを受けて、鞍上を岸滋彦から岡部にスイッチ。皐月賞と同じ舞台で行なわれる若葉ステークス(オープン)を快勝して皐月賞へ向かった。ナリタタイシンはシンザン記念(GⅢ)で2着に敗れたのを機に、武豊と新しくコンビを組むこととなった。

 ウイニングチケットはじっくりと3か月の休養を取り、3月の弥生賞(GⅡ)から始動。武豊が初めてレースで手綱をとるナリタタイシンもここをステップに選んだため、早くも2頭が直接対決することになった。

 ここでウイニングチケットは驚愕のレースを見せる。道中は最後方を進むと徐々に位置を押し上げながら6番手で直線へ向くと持ち前の瞬発力を発揮し、大外から一気に突き抜けてレコードタイムで快勝。同じく後方から進んだナリタタイシンを2馬身差という決定的な差を付けたのだ。

 この結果を受けて、ウイニングチケットは「三強」から一歩抜け出して、主役との評価を受け、一冠目の皐月賞へ駒を進めた。

文●三好達彦

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