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食と体調管理

「競争があって自分自身も成長できた」ノルディック複合元日本代表・荻原次晴のスキーへの想いと日々を支える食生活

松原孝臣

2024.02.05

■念願のオリンピック出場

――リレハンメルオリンピックの翌シーズンはワールドカップで表彰台に上がり世界選手権団体戦でも金メダルを獲得しました。

 なんか奇跡でしたね(笑)。今思うと、草津の田舎の双子の兄弟が国際大会で1等賞、2等賞、よく獲れたもんだなぁって不思議な感じになります。

 健司に間違われる悔しさから本気になって再びスキーと向き合って、健司と同じように国際舞台に出てるようになってみて、そこは本当に厳しい世界だと思いました。一競技者としてとことんやらないと戦えないとアスリートとしての覚悟のようなものが醸成されていった時期だったなと思います。

――1998年の長野オリンピック、ついにオリンピックという舞台に立ちました。

 実はそのときパフォーマンスが落ちてまして、国際大会でも僕は日本代表の2軍に落ちてたんですよ。代表の中でAとかBとかあるんですけど、僕、Bグループで。成績が悪いながらも、とりあえず日本の中では何番手かに入っていましたので長野の代表に選ばれました。ただ調子が上がらない中でオリンピックを迎えてしまったことで、国民の皆さんが注目する大会で期待に応えられないのではないかという恐怖感がずっとありました。

――その中でまず個人戦を迎え、続いて団体戦。いかがだったでしょうか。

 そこはもう開き直りました。個人戦のスキー・ジャンプのときは今までにないぐらい緊張して、もういちかばちかのチャレンジみたいな気持ちで空中に飛び出したら、あれをあれよといい向かい風を受けて、自分のパフォーマンスも良かったんでしょうけど練習ではできなかったジャンプを2本そろえることができました。

 そのときに感じていたのが喜びはなくて、発見というか学びというんでしょうかね。気持ち一つで人はこんなに変われるんだ、なんで今までこのぐらいの集中力でやってこなかったんだろうという反省の思いもありました。
 
――そのジャンプでは日本勢トップの3位、後半のクロスカントリーを終えて6位入賞を果たしました。クロスカントリーでは健司さんと競り合う場面もありました。

 我々は双子である、健司がいれば次晴もいる。私は健司の偽物ではないしがっかりされるものでもないし嘘もついてない、それを知ってもらうには健司が一番注目されるステージに一緒に上がって一緒に競い合う姿を国民の皆さんに見ていただくしかない。

 そのステージやっぱりオリンピックであるとずっと考えていました。それが実現して、健司に追い上げられて競技者としては負けるわけですけれども、僕のことも認知してほしい、僕も存在していることを知ってほしいという思いがかなったので、やっぱりうれしかったですね。

 長野のときは「次晴」という声もいっぱい聞くことができて、ゴールエリアに倒れ込んだときも会場の皆さんから「次晴!」と声援をいっぱいいただいて、ああこれで次晴になれたかな、皆さんに知っていただけたかなといろいろな思いがありました。

――長野オリンピックのシーズンをもって引退されましたが、健司さんはどういう存在だったでしょうか。

 私に限ったことではなく、兄弟の存在がすごくあの気になるときはありました。でも振り返ると健司がいたからこそ、いつもすぐそこに競争があって自分自身も成長できて、健司が頑張ってオリンピックに出た姿を見せてくれたからこそ、僕自身もオリンピックというとんでもない大きな夢を持って出場できた。

 それがまさに今の私につながっているので、健司がいてよかったなぁと思うことはよくあります。
 

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