■引退後とこれから
――引退されてからスポーツキャスターをはじめ様々な分野で幅広く活動されていらっしゃっていると思いますが、セカンドキャリアをどう設計していたのでしょうか。
引退後のことは考えていなくて、自分には何ができるんだろうってすごく悩んでいた時期がありました。そんなときウィンタースポーツの代表者としてメディアに出るのはどうかとお話をいただいて、チャレンジして今に至るわけです。
――キャスターとしてのお仕事の中から選手や競技への熱、思いがすごく伝わってきます。ソチオリンピックでは渡部暁斗選手の銀メダルに涙を流して喜んでいた記憶があります。
ノルディック複合は注目していただきながらもなかなか皆さんの期待に応えられないシーズンが長く続いて、「荻原健司さんが活躍した時代がありましたよね」って後輩たちがいつもメダルへのプレッシャーをかけられてるんじゃないかと思って、ちょっと兄弟として申し訳ない気持ちがずっとあったんですね。
その中で渡部がメダルを獲ってくれて、喜びと期待をかけすぎてごめんねみたいな申し訳なさが入り混じった涙だったかなと思います。渡部に限らずあらゆるスポーツで頑張ってるアスリートに対し、僕もそういう時代がありましたので、気持ちを重ねながらその選手たちの代弁ができるようなキャスターでありたいなと思っています。
――スキーの普及でも活動されてきました。現在の人口などはどのような感じなのでしょうか。
ピークには1800万人ほどあったスキー人口が今は450万人ぐらい、かなり減ってますで、まあ、昔と比べると余暇の楽しみ方がすごく増えたことがあると思いますが、子どもたちが離れているのではなく、その子どもたちの親御さん、保護者の皆様がスキーにお出かけにならなくなってしまった。
例えばスキー王国札幌市を見ても、野球、サッカーなどのプロスポーツが参入してもう歴史がありますし、人気があります。子どもたちはそういうキラキラしている方に行きがちなのも現状です。ですから、やっぱり雪国の皆さんこそ、大人たちが子どもたちの手を引いてゲレンデに連れてってあげてほしいなと。その中からあのスキーが大好きという子どもたちが誕生して、最終的に競技の道を選んでくれるといいなと思っています。
――スキーに限らずスポーツに励んでいる子どもやジュニア選手に向けてアドバイスをいただければと思います。
偉そうなことは言えないんですが、やっぱり「継続は力なり」という言葉があるように、とにかく続けることです。なぜ私がオリンピックまで行けたかというとスキーを続けていたからなんです。
子どもの頃スキーをやっている友達はいっぱいました。僕よりも上手な友達はいっぱいました。でも様々な理由で1人やめ2人やめ、あたりを見ますと誰もいませんでした。ある意味、それは僕がやり続けていたから、最後に残ってどうにか代表になれた。辛いときもあるとは思うんですけど、続けているうちに、自分が思ってもないようなすごい出来事が訪れるような気がします。続けることが一番大切なことじゃないかなと思ってます。
――2026年にはミラノ・コルティナダンペッツォオリンピックがありますが、それも踏まえつつ、これからの目標をお聞かせください。
長野オリンピック以降の冬のオリンピックは全て現地に取材に行かせていただいています。イタリア大会も現地に取材に行ければいいなと思ってるんですけど、その取材に行くには、今日の行ないがずっと続いていると思うんですよね。
何ができるのかといったらいただいた仕事に対して妥協のないようにベストを尽くせるかということ。そしていつか札幌でも開かれることがあったら、札幌大会にも携われるよう健康で元気で若々しくいたいと思っています。
荻原次晴(おぎわらつぎはる)
1969年12月20日生まれ、群馬県吾妻郡草津町出身
幼少期にスキーを始め、小学生のときにスキー・ジャンプ、中学入学後にノルディック複合を始める。双子の兄の健司とともにスキー・ノルディック複合の日本代表として活躍。
1998年に長野オリンピックに出場、個人6位、団体5位入賞。また1995年世界選手権では団体金メダル、ワールドカップでは2度表彰台に上がっている。1998年に引退。スポーツキャスターをはじめ各メディアで活躍するほか、スキーの普及活動にも携わる。
――引退されてからスポーツキャスターをはじめ様々な分野で幅広く活動されていらっしゃっていると思いますが、セカンドキャリアをどう設計していたのでしょうか。
引退後のことは考えていなくて、自分には何ができるんだろうってすごく悩んでいた時期がありました。そんなときウィンタースポーツの代表者としてメディアに出るのはどうかとお話をいただいて、チャレンジして今に至るわけです。
――キャスターとしてのお仕事の中から選手や競技への熱、思いがすごく伝わってきます。ソチオリンピックでは渡部暁斗選手の銀メダルに涙を流して喜んでいた記憶があります。
ノルディック複合は注目していただきながらもなかなか皆さんの期待に応えられないシーズンが長く続いて、「荻原健司さんが活躍した時代がありましたよね」って後輩たちがいつもメダルへのプレッシャーをかけられてるんじゃないかと思って、ちょっと兄弟として申し訳ない気持ちがずっとあったんですね。
その中で渡部がメダルを獲ってくれて、喜びと期待をかけすぎてごめんねみたいな申し訳なさが入り混じった涙だったかなと思います。渡部に限らずあらゆるスポーツで頑張ってるアスリートに対し、僕もそういう時代がありましたので、気持ちを重ねながらその選手たちの代弁ができるようなキャスターでありたいなと思っています。
――スキーの普及でも活動されてきました。現在の人口などはどのような感じなのでしょうか。
ピークには1800万人ほどあったスキー人口が今は450万人ぐらい、かなり減ってますで、まあ、昔と比べると余暇の楽しみ方がすごく増えたことがあると思いますが、子どもたちが離れているのではなく、その子どもたちの親御さん、保護者の皆様がスキーにお出かけにならなくなってしまった。
例えばスキー王国札幌市を見ても、野球、サッカーなどのプロスポーツが参入してもう歴史がありますし、人気があります。子どもたちはそういうキラキラしている方に行きがちなのも現状です。ですから、やっぱり雪国の皆さんこそ、大人たちが子どもたちの手を引いてゲレンデに連れてってあげてほしいなと。その中からあのスキーが大好きという子どもたちが誕生して、最終的に競技の道を選んでくれるといいなと思っています。
――スキーに限らずスポーツに励んでいる子どもやジュニア選手に向けてアドバイスをいただければと思います。
偉そうなことは言えないんですが、やっぱり「継続は力なり」という言葉があるように、とにかく続けることです。なぜ私がオリンピックまで行けたかというとスキーを続けていたからなんです。
子どもの頃スキーをやっている友達はいっぱいました。僕よりも上手な友達はいっぱいました。でも様々な理由で1人やめ2人やめ、あたりを見ますと誰もいませんでした。ある意味、それは僕がやり続けていたから、最後に残ってどうにか代表になれた。辛いときもあるとは思うんですけど、続けているうちに、自分が思ってもないようなすごい出来事が訪れるような気がします。続けることが一番大切なことじゃないかなと思ってます。
――2026年にはミラノ・コルティナダンペッツォオリンピックがありますが、それも踏まえつつ、これからの目標をお聞かせください。
長野オリンピック以降の冬のオリンピックは全て現地に取材に行かせていただいています。イタリア大会も現地に取材に行ければいいなと思ってるんですけど、その取材に行くには、今日の行ないがずっと続いていると思うんですよね。
何ができるのかといったらいただいた仕事に対して妥協のないようにベストを尽くせるかということ。そしていつか札幌でも開かれることがあったら、札幌大会にも携われるよう健康で元気で若々しくいたいと思っています。
荻原次晴(おぎわらつぎはる)
1969年12月20日生まれ、群馬県吾妻郡草津町出身
幼少期にスキーを始め、小学生のときにスキー・ジャンプ、中学入学後にノルディック複合を始める。双子の兄の健司とともにスキー・ノルディック複合の日本代表として活躍。
1998年に長野オリンピックに出場、個人6位、団体5位入賞。また1995年世界選手権では団体金メダル、ワールドカップでは2度表彰台に上がっている。1998年に引退。スポーツキャスターをはじめ各メディアで活躍するほか、スキーの普及活動にも携わる。