──早稲田大学時代には日本代表入りを果たします。初めて代表活動に参加した時の印象はどうでしたか?
やっぱり体格差やフィジカルの差を感じましたね。だから、フィジカル勝負で負けない身体を作るために、食事の量も増やしましたし、ウエイトトレーニングもかなりやるようになりました。大学生の頃は、日本代表に行って帰ってくるたびに身体が大きくなっていましたね(笑)。
──トップの世界でやっていけると実感されたのは、いつ頃ですか?
大学時代から自信はあったんです。いや、自信満々過ぎたかもしれない(笑)。代表にも呼ばれていましたし、調子に乗っていた部分もあったと思いますが、ただそれがプレーに悪影響を及ぼしていたわけではなく、むしろいい影響のほうが大きかった。「誰にも負けない」という、強い気持ちでプレーできていましたからね。
神戸製鋼に入って、やはり大学生とトップリーグ(現リーグワン)では局面の激しさとか、ラグビーの質という面で差を感じました。それでもフィジカルさえ鍛えれば十分に通用する自信はありましたね。
──その後、壁にぶつかることはありましたか?
15年のW杯メンバーから漏れた時ですね。ヘッドコーチのエディー(・ジョーンズ)さんにも、「良いプレーをしたかと思えば、次の試合では悪いプレーをする」と、ずっと好不調の波の激しさを指摘されていて、その課題を克服しなければ代表には定着できないんだと痛感しましたね。
──15年W杯はバックアップメンバーでした。日本が強豪・南アフリカを相手に歴史的な大金星を挙げた時は、どんな感情が沸き上がってきましたか?
W杯には行けないかもしれないなと思っていたので、バックアップメンバーになった時はそこまで悔しさはなかったんです。でも南アフリカ戦を見たあとに、一気に悔しさがこみ上げてきて、「もっと頑張っていたら、あの場にみんなと一緒にいられたのに」って、すごく後悔しましたね。「どうせ行かれへんやろ」って考えが頭のどこかにあって、全力を出し切れてなかったんじゃないかって。
──その悔しさを胸に4年後を目指し、日本開催の19年W杯に出場されました。初戦のロシア戦で初めてW杯のピッチに立った瞬間は、どんな気持ちでしたか?
実はW杯イヤーの19年は、日本代表として大会前に1試合しかプレーしていなかったんです。だからメンバーに入れただけで嬉しかったし、特別緊張することもなかった。ロシア戦もリザーブで、自分に与えられた役割は分かっていたので、試合に出たらそれをやり切るだけだと思っていました。いざピッチに入ったら、すぐにロングキックを蹴る場面が2回あったんですが、それがすごくいいキックになって、チームにパッと勢いがついたのも分かりましたね。
──チーム全体は立ち上がりから、かなり浮足立っていた印象でした。
めちゃくちゃ緊張してましたよね(笑)。フルバックで先発した(ウィリアム・)トゥポウなんてガチガチでしたから。たぶん、あの試合で一番緊張してなかったのは僕だったと思います。まあ、リザーブでしたし、とりあえず楽しんでプレーできたらいいなっていうくらいの軽いノリでしたね。ただ、ロシア戦以外は全部緊張しましたけど(笑)。
──初の決勝トーナメント進出を決めたスコットランド戦は、最後に山中さんがボールをタッチに蹴り出して試合が終わりました。スタジアムが一体となったカウントダウンは聞こえていましたか?
もちろん聞こえていました。僕も時計を確認しながらプレーしていましたから。本当に凄かったですよね。なんだか夢のような時間でした。あんな雰囲気は、ラグビー人生でもう二度と味わえないんじゃないかな。
──スタジアムだけではなく、日本中がラグビーでひとつにまとまっていましたよね。あらためて、あのW杯は山中さんにとってどんな大会でしたか?
個人的にはW杯出場という夢を叶えられましたし、チームとしても史上初のベスト8入りを達成できた。これまでW杯を目指して諦めずにやってきたことが報われたので、本当に最高の大会でした。
大会後には丸の内でパレードもやらせていただきましたが、ものすごい数の人が集まってくれて、ラグビー日本代表が国民のみなさんにとてつもない影響を与えたんだなって実感しましたね。
──チームメイトの田中史朗さん(24年4月に現役引退を発表)は感極まって涙を流していましたが、山中さんは?
泣きはしませんでしたが、えらい有名人になったなって痺れてましたね(笑)。とにかくものすごい経験でした。
──その経験を通して、自分の中で何か変化はありましたか?
あの感動を味わったからこそ、また次のW杯にも出たい、ラグビーにもっと注目してもらいたいって、より強く思うようになりましたね。
やっぱり体格差やフィジカルの差を感じましたね。だから、フィジカル勝負で負けない身体を作るために、食事の量も増やしましたし、ウエイトトレーニングもかなりやるようになりました。大学生の頃は、日本代表に行って帰ってくるたびに身体が大きくなっていましたね(笑)。
──トップの世界でやっていけると実感されたのは、いつ頃ですか?
大学時代から自信はあったんです。いや、自信満々過ぎたかもしれない(笑)。代表にも呼ばれていましたし、調子に乗っていた部分もあったと思いますが、ただそれがプレーに悪影響を及ぼしていたわけではなく、むしろいい影響のほうが大きかった。「誰にも負けない」という、強い気持ちでプレーできていましたからね。
神戸製鋼に入って、やはり大学生とトップリーグ(現リーグワン)では局面の激しさとか、ラグビーの質という面で差を感じました。それでもフィジカルさえ鍛えれば十分に通用する自信はありましたね。
──その後、壁にぶつかることはありましたか?
15年のW杯メンバーから漏れた時ですね。ヘッドコーチのエディー(・ジョーンズ)さんにも、「良いプレーをしたかと思えば、次の試合では悪いプレーをする」と、ずっと好不調の波の激しさを指摘されていて、その課題を克服しなければ代表には定着できないんだと痛感しましたね。
──15年W杯はバックアップメンバーでした。日本が強豪・南アフリカを相手に歴史的な大金星を挙げた時は、どんな感情が沸き上がってきましたか?
W杯には行けないかもしれないなと思っていたので、バックアップメンバーになった時はそこまで悔しさはなかったんです。でも南アフリカ戦を見たあとに、一気に悔しさがこみ上げてきて、「もっと頑張っていたら、あの場にみんなと一緒にいられたのに」って、すごく後悔しましたね。「どうせ行かれへんやろ」って考えが頭のどこかにあって、全力を出し切れてなかったんじゃないかって。
──その悔しさを胸に4年後を目指し、日本開催の19年W杯に出場されました。初戦のロシア戦で初めてW杯のピッチに立った瞬間は、どんな気持ちでしたか?
実はW杯イヤーの19年は、日本代表として大会前に1試合しかプレーしていなかったんです。だからメンバーに入れただけで嬉しかったし、特別緊張することもなかった。ロシア戦もリザーブで、自分に与えられた役割は分かっていたので、試合に出たらそれをやり切るだけだと思っていました。いざピッチに入ったら、すぐにロングキックを蹴る場面が2回あったんですが、それがすごくいいキックになって、チームにパッと勢いがついたのも分かりましたね。
──チーム全体は立ち上がりから、かなり浮足立っていた印象でした。
めちゃくちゃ緊張してましたよね(笑)。フルバックで先発した(ウィリアム・)トゥポウなんてガチガチでしたから。たぶん、あの試合で一番緊張してなかったのは僕だったと思います。まあ、リザーブでしたし、とりあえず楽しんでプレーできたらいいなっていうくらいの軽いノリでしたね。ただ、ロシア戦以外は全部緊張しましたけど(笑)。
──初の決勝トーナメント進出を決めたスコットランド戦は、最後に山中さんがボールをタッチに蹴り出して試合が終わりました。スタジアムが一体となったカウントダウンは聞こえていましたか?
もちろん聞こえていました。僕も時計を確認しながらプレーしていましたから。本当に凄かったですよね。なんだか夢のような時間でした。あんな雰囲気は、ラグビー人生でもう二度と味わえないんじゃないかな。
──スタジアムだけではなく、日本中がラグビーでひとつにまとまっていましたよね。あらためて、あのW杯は山中さんにとってどんな大会でしたか?
個人的にはW杯出場という夢を叶えられましたし、チームとしても史上初のベスト8入りを達成できた。これまでW杯を目指して諦めずにやってきたことが報われたので、本当に最高の大会でした。
大会後には丸の内でパレードもやらせていただきましたが、ものすごい数の人が集まってくれて、ラグビー日本代表が国民のみなさんにとてつもない影響を与えたんだなって実感しましたね。
──チームメイトの田中史朗さん(24年4月に現役引退を発表)は感極まって涙を流していましたが、山中さんは?
泣きはしませんでしたが、えらい有名人になったなって痺れてましたね(笑)。とにかくものすごい経験でした。
──その経験を通して、自分の中で何か変化はありましたか?
あの感動を味わったからこそ、また次のW杯にも出たい、ラグビーにもっと注目してもらいたいって、より強く思うようになりましたね。