その後、1994年の札幌記念(GⅢ、札幌・芝2000m)を制したが、あとは善戦止まりでなかなか勝利には届かなかったホクトベガ。ここでオーナーの森滋(名義は金森森商事)と調教師の中野隆良は思い切った選択をする。交流重賞となった牝馬限定戦であるエンプレス杯(川崎・ダート2000m)を使ってみることを決断したのだ。
のちに中野に取材した際に、そのときの心境を訊いたことがある。
「当時は正直言って、中央の関係者は地方競馬を見下すような風潮が強かった。だから、中央のGⅠ勝ち馬を地方のダートへ連れて行って、もし勝てなかったらどうするんだ? 恥ずかしいじゃないか、という声もたくさん聞こえてきました。もちろん勝てるという自信があったから参戦したのですが、それは大きなプレッシャーがかかりましたね」
中野を戸惑わせた周囲の声をホクトベガは恐るべき結果で吹き飛ばしてしまう。好スタートから2番手を追走し、向正面の半ばで先頭に立つと、あとは後続を引き離すばかりのワンサイドゲームとなり、鞍上の横山典弘の手綱はほぼ動かない”持ったまま”の競馬で2着に3秒6の大差を付けて異次元の圧勝を遂げてしまったのである。
ここからホクトベガはダートと芝、いわゆる「二刀流」の競走生活を送るのだが、やはり特筆すべきは1996年に記録したダート8連勝という快記録だ。
同年1月である川崎記念(5馬身差)、2月フェブラリーステークス(3馬身半差)、3月ダイオライト記念(2馬身半差)、5月の群馬記念(2馬身半差)、6月の帝王賞(2馬身差)、7月エンプレス杯(8馬身差)、10月の南部杯(7馬身差)、12月の浦和記念(3/4馬身差)。際どかったのは牡馬の強豪キョウトシチーと競った浦和記念ぐらいで、あとはいずれも”持ったまま”の圧勝続き。自然発生的に彼女は「砂の女王」という称号を冠されるようになった。そして、この年度のJRA賞で最優秀ダートホースのタイトルを授与された。
のちに中野に取材した際に、そのときの心境を訊いたことがある。
「当時は正直言って、中央の関係者は地方競馬を見下すような風潮が強かった。だから、中央のGⅠ勝ち馬を地方のダートへ連れて行って、もし勝てなかったらどうするんだ? 恥ずかしいじゃないか、という声もたくさん聞こえてきました。もちろん勝てるという自信があったから参戦したのですが、それは大きなプレッシャーがかかりましたね」
中野を戸惑わせた周囲の声をホクトベガは恐るべき結果で吹き飛ばしてしまう。好スタートから2番手を追走し、向正面の半ばで先頭に立つと、あとは後続を引き離すばかりのワンサイドゲームとなり、鞍上の横山典弘の手綱はほぼ動かない”持ったまま”の競馬で2着に3秒6の大差を付けて異次元の圧勝を遂げてしまったのである。
ここからホクトベガはダートと芝、いわゆる「二刀流」の競走生活を送るのだが、やはり特筆すべきは1996年に記録したダート8連勝という快記録だ。
同年1月である川崎記念(5馬身差)、2月フェブラリーステークス(3馬身半差)、3月ダイオライト記念(2馬身半差)、5月の群馬記念(2馬身半差)、6月の帝王賞(2馬身差)、7月エンプレス杯(8馬身差)、10月の南部杯(7馬身差)、12月の浦和記念(3/4馬身差)。際どかったのは牡馬の強豪キョウトシチーと競った浦和記念ぐらいで、あとはいずれも”持ったまま”の圧勝続き。自然発生的に彼女は「砂の女王」という称号を冠されるようになった。そして、この年度のJRA賞で最優秀ダートホースのタイトルを授与された。
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