ーー1970年代はソフトボールが五輪の正式競技になる前で、世界選手権が最高点という時代でした。
そうなんです。ユニチカはバレーボール部があって、1964年の東京五輪で優勝した「東洋の魔女」もユニチカの前身・大日本紡績がスタートですから、彼女たちは朝から練習ができて、栄養士もついていて、すごく恵まれていました。同世代の横山樹里さんというスーパースターもいましたね。「同じユニチカなのに何でこんなに差があるのか」とよく上司に食ってかかった記憶があります。
だからこそ、ソフトボールをメジャーにしたいという気持ちはすごく強かった。「バレーボールのように大勢の人に応援されて、華やかな雰囲気の中では戦いたい」という夢を思い描いていました。それが実現するのは96年アトランタ五輪まで待たないといけなかったんですけど、当時はまだまだでしたね。
ーー31歳で引退し、1885年に指導者に転身しますが、1980年代半ばの日本スポーツ界は女性監督が皆無に近い状態でした。
私が日立高崎の監督になる時には賛否両論がありました。当時の日立は女性の管理職もほとんどいませんでしたから、女性監督は好まれなかったのが正直なところです。それでも監督になれたのは、工場長の存在が大きかったと思います。「宇津木さんに託してみよう 」と言ってくれて、会社の部長や後援会に働きかけてくれたそうです。初めて優勝した時にその話を聞かされて、本当に有難く感じました。
今のビッグカメラ高崎の岩渕有美監督にも「当時の工場長は強い思いを持って今のチームを作ってくれたんだよ」とよく話をしていて、40年前の思いを引き継いでいくことが大切ですね。
ーー1985年と言えば、男女雇用機会均等法が制定された年。女性の地位はまだまだ低かったですね。
就任してすぐの頃は日立高崎もあまり勝てなかったので、他の監督に気にされなかったんです。でも結果がでるようになると反感が強まって、手のひら返しの対応をされることも多くなりました。そこで、自分が考えたのは「男社会で認められるには勝つことしかない」とその気持ちを貫きました。
ーーそうやって実績を積み上げ、日本代表コーチとなり、96年アトランタ五輪に参戦されました。
アトランタの開会式にマント姿で参加した時は「これが世界のアスリートの祭典なんだ」と感動しましたね。それまで世界選手権には出たことがありましたけど、五輪はバスケットや野球など世界のトップ選手が一堂に会しているじゃないですか。こういう舞台にソフトボール日本代表として参加できることに心から感謝しました。
ーーアトランタの日本代表は鈴村光利監督の下、4位という結果。その後、宇津木さんが指揮官を引き継ぎました。
アトランタの後、「日本チームのいいところは何だろう」と自分なりに分析したんです。一番の強みは守り。ピッチャーのスピードは少し劣るかもしれないけど、制球力に秀でる選手が多かった。それを武器に2000年シドニー五輪のチームを作ろうと考えました。4年間でのべ99人の選手を呼びましたけど、コントロールのいいピッチャーと守れる選手を軸に22人を選考。そこから最終メンバー15人に絞り込むに当たって「日本のために戦ってくれる人 。代表選手にふさわしい人間性を持った選手」という基準を決めました。「それが当たり前にできなかったら辞めてもらう」と話したところ、全員が残ってくれました。そこからは、もう本当に練習しましたね。あの頃は練習量が半端じゃなかった。1対1の対話もしたし、選手たちは全てやってくれたと思っています。
そのうえで15人を選び、本番に挑んだんですけど、決勝のアメリカ戦で私のピッチャー交代のミスで負けてしまった。あそこまで頑張った選手たちを勝たせてあげたかったという後悔は強く残りましたね。
そうなんです。ユニチカはバレーボール部があって、1964年の東京五輪で優勝した「東洋の魔女」もユニチカの前身・大日本紡績がスタートですから、彼女たちは朝から練習ができて、栄養士もついていて、すごく恵まれていました。同世代の横山樹里さんというスーパースターもいましたね。「同じユニチカなのに何でこんなに差があるのか」とよく上司に食ってかかった記憶があります。
だからこそ、ソフトボールをメジャーにしたいという気持ちはすごく強かった。「バレーボールのように大勢の人に応援されて、華やかな雰囲気の中では戦いたい」という夢を思い描いていました。それが実現するのは96年アトランタ五輪まで待たないといけなかったんですけど、当時はまだまだでしたね。
ーー31歳で引退し、1885年に指導者に転身しますが、1980年代半ばの日本スポーツ界は女性監督が皆無に近い状態でした。
私が日立高崎の監督になる時には賛否両論がありました。当時の日立は女性の管理職もほとんどいませんでしたから、女性監督は好まれなかったのが正直なところです。それでも監督になれたのは、工場長の存在が大きかったと思います。「宇津木さんに託してみよう 」と言ってくれて、会社の部長や後援会に働きかけてくれたそうです。初めて優勝した時にその話を聞かされて、本当に有難く感じました。
今のビッグカメラ高崎の岩渕有美監督にも「当時の工場長は強い思いを持って今のチームを作ってくれたんだよ」とよく話をしていて、40年前の思いを引き継いでいくことが大切ですね。
ーー1985年と言えば、男女雇用機会均等法が制定された年。女性の地位はまだまだ低かったですね。
就任してすぐの頃は日立高崎もあまり勝てなかったので、他の監督に気にされなかったんです。でも結果がでるようになると反感が強まって、手のひら返しの対応をされることも多くなりました。そこで、自分が考えたのは「男社会で認められるには勝つことしかない」とその気持ちを貫きました。
ーーそうやって実績を積み上げ、日本代表コーチとなり、96年アトランタ五輪に参戦されました。
アトランタの開会式にマント姿で参加した時は「これが世界のアスリートの祭典なんだ」と感動しましたね。それまで世界選手権には出たことがありましたけど、五輪はバスケットや野球など世界のトップ選手が一堂に会しているじゃないですか。こういう舞台にソフトボール日本代表として参加できることに心から感謝しました。
ーーアトランタの日本代表は鈴村光利監督の下、4位という結果。その後、宇津木さんが指揮官を引き継ぎました。
アトランタの後、「日本チームのいいところは何だろう」と自分なりに分析したんです。一番の強みは守り。ピッチャーのスピードは少し劣るかもしれないけど、制球力に秀でる選手が多かった。それを武器に2000年シドニー五輪のチームを作ろうと考えました。4年間でのべ99人の選手を呼びましたけど、コントロールのいいピッチャーと守れる選手を軸に22人を選考。そこから最終メンバー15人に絞り込むに当たって「日本のために戦ってくれる人 。代表選手にふさわしい人間性を持った選手」という基準を決めました。「それが当たり前にできなかったら辞めてもらう」と話したところ、全員が残ってくれました。そこからは、もう本当に練習しましたね。あの頃は練習量が半端じゃなかった。1対1の対話もしたし、選手たちは全てやってくれたと思っています。
そのうえで15人を選び、本番に挑んだんですけど、決勝のアメリカ戦で私のピッチャー交代のミスで負けてしまった。あそこまで頑張った選手たちを勝たせてあげたかったという後悔は強く残りましたね。