――2017年には、オランダ・アムステルダムで開催された世界最高峰の大会「Red Bull BC One World Final」に女性として初出場しています。
自分としてもその数年間は物凄くアグレッシブにチャレンジしていました。年齢的には33~34歳になっていましたが、私のダンスは「省エネダンス」とチームメイトに言われていて(笑)、そこまでダイナミックさで勝負できるスタイルではなかったので、あまり大きなケガもしなかったんですよね。一番大きいケガをしたのが38歳の時。ヘルニアで苦しむようになって、今に至っていますけど、そこまでは本当に大きな怪我もなく踊ることができていました。
―-そしてコロナ禍の2020年に、2024年パリ五輪での採用が決まりました、
コロナ禍のときは、それまで忙しく動き回っていたのに突然時間が空いて「自分は何をしたいんだろう」と戸惑いを覚えました。でも自分のダンスともっと向き合える時間にもなりました。そのタイミングでブレイキンが五輪種目として決まった。最初は何がどう変わるのかもよく分からなくて、漠然と「ああすごい」と思ったくらいでしたね。
―ー2021年に福島さんは世界ブレイキン選手権(フランス)で金メダルを獲得しましたね。
五輪に向けた1つの選考会という位置づけでしたね。確か1か月前に違うバトルで負けて、「世界選手権まで1カ月しかないから頑張ろう」と集中力を高めて挑んだ記憶があります。最後まで諦めずに踊れたことが自分自身、大きな思い出ですね。ブレイキンっていうのはすぐに結果が変わってしまうもの。「あそこでもっと行けたのに」という後悔が残るのが一番嫌ですね。あの世界選手権は「何としても頑張ろう」と思えた大会だったので、その姿勢がすごくよかったと感じます。
―-ほぼ同じタイミングの2021年にDリーグ(世界最高峰のプロダンスリーグ)も開幕し、ブレイキンの認知度も一気に高まっていきました。
Dリーグには私自身、携わってはいないですが、やっている子に聞くと「ファンの方が沢山おられて、普段私たちが参加しているバトルとは違って、メチャクチャ面白い」と言ってますね。実際に見に行ったことはないですが、話を聞くとキラキラしていてとても盛り上がっているという印象ではあります。
こうした動きやパリ五輪の正式種目採用によって、ブレイキンを知ってもらえる環境は間違いなく増えた。応援してくれる人の数も、「頑張ってね」と声をかけてもらえる場面も多くなりましたし、それまでとは全然違うんだなと実感しましたね。
―-そして五輪イヤーの2024年春にパリ行きが内定しました。
はい、接戦に接戦の末、6月に内定しました。そこまでの道のりを振り返ってみると、しんどいこともあったけど、楽しかったですね。自分が踊れることや支えてくれた家族やグループの仲間、仕事仲間の感謝があったので、本当に頑張ろうと思えました。
自分としてもその数年間は物凄くアグレッシブにチャレンジしていました。年齢的には33~34歳になっていましたが、私のダンスは「省エネダンス」とチームメイトに言われていて(笑)、そこまでダイナミックさで勝負できるスタイルではなかったので、あまり大きなケガもしなかったんですよね。一番大きいケガをしたのが38歳の時。ヘルニアで苦しむようになって、今に至っていますけど、そこまでは本当に大きな怪我もなく踊ることができていました。
―-そしてコロナ禍の2020年に、2024年パリ五輪での採用が決まりました、
コロナ禍のときは、それまで忙しく動き回っていたのに突然時間が空いて「自分は何をしたいんだろう」と戸惑いを覚えました。でも自分のダンスともっと向き合える時間にもなりました。そのタイミングでブレイキンが五輪種目として決まった。最初は何がどう変わるのかもよく分からなくて、漠然と「ああすごい」と思ったくらいでしたね。
―ー2021年に福島さんは世界ブレイキン選手権(フランス)で金メダルを獲得しましたね。
五輪に向けた1つの選考会という位置づけでしたね。確か1か月前に違うバトルで負けて、「世界選手権まで1カ月しかないから頑張ろう」と集中力を高めて挑んだ記憶があります。最後まで諦めずに踊れたことが自分自身、大きな思い出ですね。ブレイキンっていうのはすぐに結果が変わってしまうもの。「あそこでもっと行けたのに」という後悔が残るのが一番嫌ですね。あの世界選手権は「何としても頑張ろう」と思えた大会だったので、その姿勢がすごくよかったと感じます。
―-ほぼ同じタイミングの2021年にDリーグ(世界最高峰のプロダンスリーグ)も開幕し、ブレイキンの認知度も一気に高まっていきました。
Dリーグには私自身、携わってはいないですが、やっている子に聞くと「ファンの方が沢山おられて、普段私たちが参加しているバトルとは違って、メチャクチャ面白い」と言ってますね。実際に見に行ったことはないですが、話を聞くとキラキラしていてとても盛り上がっているという印象ではあります。
こうした動きやパリ五輪の正式種目採用によって、ブレイキンを知ってもらえる環境は間違いなく増えた。応援してくれる人の数も、「頑張ってね」と声をかけてもらえる場面も多くなりましたし、それまでとは全然違うんだなと実感しましたね。
―-そして五輪イヤーの2024年春にパリ行きが内定しました。
はい、接戦に接戦の末、6月に内定しました。そこまでの道のりを振り返ってみると、しんどいこともあったけど、楽しかったですね。自分が踊れることや支えてくれた家族やグループの仲間、仕事仲間の感謝があったので、本当に頑張ろうと思えました。