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MLB

“人種の壁”打破に西海岸移転、野球の国際化推進...球界に数々の革命をもたらしたドジャースこそ大谷翔平にふさわしい<SLUGGER>

出野哲也

2023.12.18

誰も歩んだことのない道を切り拓いてきた大谷がドジャースを選んだのも、ある意味で必然と言える?(C)Getty Images

誰も歩んだことのない道を切り拓いてきた大谷がドジャースを選んだのも、ある意味で必然と言える?(C)Getty Images

 最高の選手が最高のチームを選んだ、ということだろう。大谷翔平の新たな所属先はロサンゼルス・ドジャースに決まった。2020年にワールドシリーズを制し、23年も含めここ11年で10度の地区優勝を飾っている常勝球団。そしてまた、メジャーリーグ(MLB)の歴史において数々の革新をもたらしてきた先進的なチームでもある。投打の二刀流を何年にもわたって続けるという、近代MLBでは初めての道を開拓した、真の革命児である大谷にとってふさわしいチームであると言っていい。

【関連記事】大谷翔平がエンジェルスから卒業した日――古巣を“反面教師”にした末の必然のドジャース入団<SLUGGER>

 1884年にブルックリンで創設されたドジャースは、第二次大戦まではそれほど強くもなく(初めて世界一になったのは1955年)、ニューヨークに本拠を置くヤンキース、ジャイアンツより格下として扱われていた。

 チームの命運が劇的に変わったのは、46年に当時のGMブランチ・リッキーがある選手と契約したことであった。近代MLB最初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンである。当時のMLBは有色人種のプレーを実質的に禁じていた、白人ばかりの世界だった。だがリッキーはロビンソンを入団させることで、そうした人種の壁を打ち破ったのだ。

 翌47年にメジャーへ昇格したロビンソンは、さまざまないやがらせを乗り越えて活躍し、この年新設された新人王に選ばれると、その後も中心選手としてチームを牽引した。ドジャースに続いて他球団も続々と黒人選手を獲得していき、国民的娯楽であったMLBで黒人選手たちが活躍するようになったことが、彼らの社会的な立場の改善にもつながった。ロビンソンの登場は球界、スポーツ界の枠を超え、アメリカ社会においても真に革新的な出来事だったのである。
 ドジャースの次なる「革新」は西海岸への進出だった。ブルックリンでの新球場建設計画が頓挫したことを受け、58年に新たな本拠地として選んだのが、MLB球団の本拠地が一つもなかった西海岸だった(それまで最も西に位置していた都市は中西部のカンザスシティ)。移転先はカリフォルニア州のロサンゼルスで、その際ニューヨークでライバルとしてしのぎを削ってきたジャイアンツも、同じタイミングでサンフランシスコへ移った。地理的な観点からも、この時初めてMLBは名実ともに全国的なスポーツとなったと言っていい。ブルックリンでは頭打ちだった観客動員も劇的に増え、62年には新球場としてドジャー・スタジアムが完成。78年にはメジャー史上初の年間300万人を記録した。

 74年には、主力投手だったトミー・ジョンが左肘の靱帯を断裂。当時の常識では再起不能と見なされる大怪我だったが、ドジャースのメディカルスタッフだったフランク・ジョーブ博士は、ジョンの右手首の腱を肘に移植するという、画期的な手術を施す。懸命なリハビリを経て、ジョンは見事な復活を遂げた。その後何百人もの投手の選手生命を救った(もちろん大谷もその一人だ)この手術=内側側副靱帯再建手術は、ジョンの名をとってトミー・ジョン手術と呼ばれている。

 ドジャースは野球の国際化にも熱心なチームだった。48年に開設した、フロリダ州ベロビーチの巨大なトレーニングセンターは、巨人や中日など日本のプロ野球チームも春季キャンプ地として利用した。その縁から日本人選手の野球留学を受け入れて、山本昌、長嶋一茂らがドジャースのマイナー球団でプレー。特に山本は、そこで習得したスクリューボールが飛躍のきっかけとなり大投手へ成長を遂げた。86年には中国の天津にも球場を建設・寄贈するなど、世界中に野球を広める努力を続けてきた。

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