プロ野球の歴史の中には、豊富な才能を持ちながらも、故障によってそれを十全に発揮することができなかった選手たちがいる。ここでは、そんな怪我がなければもっと大成したであろう"悲運の天才"たちを、故障する前の成績や、周囲の期待度などを基にランキング形式で紹介。今回は5位から1位までをお送りする。
▼5位 工藤幹夫(元日本ハム)
七色の変化球を操る変幻自在のサイドスロー右腕。1981年にリリーフとして頭角を現し、翌年は先発に転向。6~8月には無傷の14連勝を記録するなどの快進撃で、20勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得した。
だがシーズン終盤、ドアノブに右手を強打して小指を骨折。完治しないうちに無理をしたため後遺症が残り、翌83年は8勝、84年は0勝と成績が急降下した。85年から打者に転向するも結果は出せず、88年に引退。だが、「プロ人生は太く短く考えていた。何か一つでも残せればいいなという思いだった」と後悔は口にしなかった。
▼4位 今中慎二(元中日)
「先発したら完投」が身上だった90年代中日のエース。特に圧巻だったのは93年で、140キロ台後半の直球と90キロ台のスローカーブの武器に、7月6日には1試合16奪三振のセ・リーグ記録を樹立。その後も快投を続けて最多勝・最多奪三振のタイトルを獲得し、条件を全項目満たして沢村賞も受賞した。
だが97年に左肩を故障し、ストレートの球速が一時は120キロ台まで落ちたという。99年には手術を受けたが球威は戻らず、2001年限りで引退。まだ30歳だった。会見では「悔いはあります」と語ったが、それでも故障については「プロだから投げ過ぎで壊れるなら本望」ときっぱり言い切るなど、最後まで本物のエースとしての矜持は失わなかった。
▼3位 権藤博(元中日)
当時はエースがフル回転するのは普通のことだったとはいえ、それでも61年にデビューした権藤の連投ぶりはすさまじく、「権藤、権藤、雨、権藤」なる流行語が生まれたほどだった。結局この年はリーグ最多の69試合に登板し、同じく最多の429.1回イニングを投げ抜いた。その上投手三冠も総なめにして、新人王と沢村賞をダブル受賞した。
2年目も30勝を挙げて2年連続の最多勝に獲得したが、案の定酷使がたたって翌年に右肩痛を発症し、3年目以降は計17勝に終わる。65年には打者へ転向するも再起はならず、69年に31歳の若さで引退した。だが、たった2年の驚異的な活躍によって、2019年には野球殿堂入りを果たしている。
▼5位 工藤幹夫(元日本ハム)
七色の変化球を操る変幻自在のサイドスロー右腕。1981年にリリーフとして頭角を現し、翌年は先発に転向。6~8月には無傷の14連勝を記録するなどの快進撃で、20勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得した。
だがシーズン終盤、ドアノブに右手を強打して小指を骨折。完治しないうちに無理をしたため後遺症が残り、翌83年は8勝、84年は0勝と成績が急降下した。85年から打者に転向するも結果は出せず、88年に引退。だが、「プロ人生は太く短く考えていた。何か一つでも残せればいいなという思いだった」と後悔は口にしなかった。
▼4位 今中慎二(元中日)
「先発したら完投」が身上だった90年代中日のエース。特に圧巻だったのは93年で、140キロ台後半の直球と90キロ台のスローカーブの武器に、7月6日には1試合16奪三振のセ・リーグ記録を樹立。その後も快投を続けて最多勝・最多奪三振のタイトルを獲得し、条件を全項目満たして沢村賞も受賞した。
だが97年に左肩を故障し、ストレートの球速が一時は120キロ台まで落ちたという。99年には手術を受けたが球威は戻らず、2001年限りで引退。まだ30歳だった。会見では「悔いはあります」と語ったが、それでも故障については「プロだから投げ過ぎで壊れるなら本望」ときっぱり言い切るなど、最後まで本物のエースとしての矜持は失わなかった。
▼3位 権藤博(元中日)
当時はエースがフル回転するのは普通のことだったとはいえ、それでも61年にデビューした権藤の連投ぶりはすさまじく、「権藤、権藤、雨、権藤」なる流行語が生まれたほどだった。結局この年はリーグ最多の69試合に登板し、同じく最多の429.1回イニングを投げ抜いた。その上投手三冠も総なめにして、新人王と沢村賞をダブル受賞した。
2年目も30勝を挙げて2年連続の最多勝に獲得したが、案の定酷使がたたって翌年に右肩痛を発症し、3年目以降は計17勝に終わる。65年には打者へ転向するも再起はならず、69年に31歳の若さで引退した。だが、たった2年の驚異的な活躍によって、2019年には野球殿堂入りを果たしている。