甲子園球場で行われた6日の阪神対巨人で、20年ぶりの珍事が起きた。巨人が4点ビハインドで迎えた8回裏、5番手の堀岡隼人が4安打2四球で7失点。11点差がついたところで、原辰徳監督が急遽マウンドへ送り出したのは、なんと内野手登録の増田大輝だった。
しかし、大量失点を喫した本職の投手陣を尻目に、増田は意外な好投。まず2番・近本光司を136キロの直球でセカンドゴロに仕留める。つづく3番・江越大賀には四球を与えたものの、4番・大山悠輔はライトフライに打ち取って無失点で切り抜けた。
来季からはルールが改正されるため、そう簡単にはできなくなるが、MLBにおいては大量の点差がついた場面で野手が登板することは珍しくない。昨シーズンはスティービー・ウィルカーソン(オリオールズ)が野手史上初のセーブを記録したり、ラッセル・マーティン(当時ドジャース)が94年ぶりに「勝ち試合で三者凡退に抑えた野手」になるなど、野手の登板に関する珍記録がいくつか生まれた。
だが、日本ではこうした例はほとんどない。最後に野手で登板を果たしたのは、2000年6月3日の五十嵐章人(当時オリックス)まで遡る。元々内外野をこなすユーティリティプレーヤーとして知られており、それまでに投手以外の全守備位置を守った経験があった。
そこに目を付けた仰木彬監督は、近鉄に3対16と大差をつけられた8回裏に五十嵐をマウンドへ送り出し、史上2人目の全ポジション守備を達成させたのである。高校時代は投手だった五十嵐は打者4人を1安打1失点に抑えたため、ベンチに戻ると仰木監督が「投手じゃなくても抑えられるんだ!」と投手陣を叱責しているのを耳にしたという。
史上最初に全ポジション守備が達成されたのは1974年9月29日のことだが、これを達成したのは高橋博士(当時日本ハム)。高橋はこの日、1試合で全ポジションを守るという前代未聞の快挙を成し遂げたが、投げたのは1人だけ、しかも投手相手だった。
また、マーリンズ時代の15年に1試イニングだけ登板したことのあるイチローは、オリックス時代にも投手を務めたことがある。公式戦ではなく、96年のオールスター第2戦でのことだ。この日の仕掛け人も全パを率いていた仰木監督で、よりにもよって松井秀喜(当時巨人)のところでイチローをマウンドに送る。だが、これに全セの指揮官だったヤクルトの野村克也監督が激怒。松井に代わって投手の高津臣吾(当時ヤクルト)を代打に送り、“世紀の対決”は露と消えた。
ここまで書いたケースはファンサービスの意味合いもあり、増田のケースとは少し異なるかもしれない。今回のような大量ビハインドでの敗戦処理としての野手の登板となると、95年5月9日のオレステス・デストラーデ(当時西武)が近いか。オリックスに0対9の大量リードを許した8回裏に登板したデストラーデだが、結局1死もとれずに降板。そう考えると、打者3人を無失点に抑えた増田はやはりすごい。
文●筒居一孝(SLUGGER編集部)
【巨人PHOTO】巨人が宮崎でキャンプイン。サンマリンスタジアムの観衆は2万3000人!
しかし、大量失点を喫した本職の投手陣を尻目に、増田は意外な好投。まず2番・近本光司を136キロの直球でセカンドゴロに仕留める。つづく3番・江越大賀には四球を与えたものの、4番・大山悠輔はライトフライに打ち取って無失点で切り抜けた。
来季からはルールが改正されるため、そう簡単にはできなくなるが、MLBにおいては大量の点差がついた場面で野手が登板することは珍しくない。昨シーズンはスティービー・ウィルカーソン(オリオールズ)が野手史上初のセーブを記録したり、ラッセル・マーティン(当時ドジャース)が94年ぶりに「勝ち試合で三者凡退に抑えた野手」になるなど、野手の登板に関する珍記録がいくつか生まれた。
だが、日本ではこうした例はほとんどない。最後に野手で登板を果たしたのは、2000年6月3日の五十嵐章人(当時オリックス)まで遡る。元々内外野をこなすユーティリティプレーヤーとして知られており、それまでに投手以外の全守備位置を守った経験があった。
そこに目を付けた仰木彬監督は、近鉄に3対16と大差をつけられた8回裏に五十嵐をマウンドへ送り出し、史上2人目の全ポジション守備を達成させたのである。高校時代は投手だった五十嵐は打者4人を1安打1失点に抑えたため、ベンチに戻ると仰木監督が「投手じゃなくても抑えられるんだ!」と投手陣を叱責しているのを耳にしたという。
史上最初に全ポジション守備が達成されたのは1974年9月29日のことだが、これを達成したのは高橋博士(当時日本ハム)。高橋はこの日、1試合で全ポジションを守るという前代未聞の快挙を成し遂げたが、投げたのは1人だけ、しかも投手相手だった。
また、マーリンズ時代の15年に1試イニングだけ登板したことのあるイチローは、オリックス時代にも投手を務めたことがある。公式戦ではなく、96年のオールスター第2戦でのことだ。この日の仕掛け人も全パを率いていた仰木監督で、よりにもよって松井秀喜(当時巨人)のところでイチローをマウンドに送る。だが、これに全セの指揮官だったヤクルトの野村克也監督が激怒。松井に代わって投手の高津臣吾(当時ヤクルト)を代打に送り、“世紀の対決”は露と消えた。
ここまで書いたケースはファンサービスの意味合いもあり、増田のケースとは少し異なるかもしれない。今回のような大量ビハインドでの敗戦処理としての野手の登板となると、95年5月9日のオレステス・デストラーデ(当時西武)が近いか。オリックスに0対9の大量リードを許した8回裏に登板したデストラーデだが、結局1死もとれずに降板。そう考えると、打者3人を無失点に抑えた増田はやはりすごい。
文●筒居一孝(SLUGGER編集部)
【巨人PHOTO】巨人が宮崎でキャンプイン。サンマリンスタジアムの観衆は2万3000人!