元プロ野球選手の清原和博が、12月12日からYou Tubeユーチューブ「清ちゃんスポーツ」を始めた。覚醒剤取締法違反(使用など)で懲役2年6月、執行猶予4年の有罪判決を受けたが、今年6月に執行猶予期間が終了したことで社会復帰を果たし、本格的な活動を再開した。
35年前の1985年にドラフト1位で西武ライオンズに指名され、入団発表が行われた「12月12日」を配信開始日に選び、「留置番号だった」という「114番」と記された黒色の特注Tシャツで登場した清原。「育成枠からもう一度、3と5(番)を付けられるように、114番からのスタートです」と、背番号に社会復帰への強い思いを込めた。
清原と言えば、本塁打が代名詞。5季連続して出場した甲子園では、1年からPL学園(大阪)の4番に座り、2年の1984年、第66回全校区高校野球選手権大会の1回戦、享栄(愛知)戦で、3打数連続本塁打(甲子園春夏通算7本塁打)を放ち、通算本塁打記録を塗り替えた。
それまでの通算記録は、浪商時代にドカベンとして甲子園を沸かせた香川伸行(南海、ダイエー)の5本塁打(1979年春、夏)。当時、遠征先の青森でテレビ観戦していた香川の「3年間で10本はいくのでは」との予想を、通算本塁打を13本にまで伸ばして裏切った。1985年夏の5本塁打は、2017年に広陵(広島)の中村奨成(現広島)が6本塁打を放つまで、32年間も抜かれることのない高校球界の大記録となった。
この3打数連続本塁打こそ、その後のプロでの活躍を明確に予感させるものだった。1本目は右中間への2ラン。2本目は左翼へのソロ、3本目は左中間最深部へ豪快に2ランと、見事に広角に打ち分けてみせた。特に2本目は、相手投手が直球勝負を避けてかわしてきた外角のカーブをとらえたもの。「今まで外角の変化球は打てなかったが、タメを作れるようになった」と振り返っていたが、自らの成長を感じ取った一打だったに違いない。
プロでは歴代5位の525本塁打をマーク。しかし、打撃タイトルとは無縁だった。そんな中で記憶に残る記録の一つが、1986年の新人最多の31本塁打だろう。だが、その記録が「30本」で終わる大ピンチがあった。
35年前の1985年にドラフト1位で西武ライオンズに指名され、入団発表が行われた「12月12日」を配信開始日に選び、「留置番号だった」という「114番」と記された黒色の特注Tシャツで登場した清原。「育成枠からもう一度、3と5(番)を付けられるように、114番からのスタートです」と、背番号に社会復帰への強い思いを込めた。
清原と言えば、本塁打が代名詞。5季連続して出場した甲子園では、1年からPL学園(大阪)の4番に座り、2年の1984年、第66回全校区高校野球選手権大会の1回戦、享栄(愛知)戦で、3打数連続本塁打(甲子園春夏通算7本塁打)を放ち、通算本塁打記録を塗り替えた。
それまでの通算記録は、浪商時代にドカベンとして甲子園を沸かせた香川伸行(南海、ダイエー)の5本塁打(1979年春、夏)。当時、遠征先の青森でテレビ観戦していた香川の「3年間で10本はいくのでは」との予想を、通算本塁打を13本にまで伸ばして裏切った。1985年夏の5本塁打は、2017年に広陵(広島)の中村奨成(現広島)が6本塁打を放つまで、32年間も抜かれることのない高校球界の大記録となった。
この3打数連続本塁打こそ、その後のプロでの活躍を明確に予感させるものだった。1本目は右中間への2ラン。2本目は左翼へのソロ、3本目は左中間最深部へ豪快に2ランと、見事に広角に打ち分けてみせた。特に2本目は、相手投手が直球勝負を避けてかわしてきた外角のカーブをとらえたもの。「今まで外角の変化球は打てなかったが、タメを作れるようになった」と振り返っていたが、自らの成長を感じ取った一打だったに違いない。
プロでは歴代5位の525本塁打をマーク。しかし、打撃タイトルとは無縁だった。そんな中で記憶に残る記録の一つが、1986年の新人最多の31本塁打だろう。だが、その記録が「30本」で終わる大ピンチがあった。