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プロ野球

【プロ野球秘話】阪神、1985年日本一の舞台裏。バックスクリーン3連発の陰に隠れた味な“犠打記録“

北野正樹

2020.12.30

胴上げされる吉田監督。1985年の優勝の裏には、指揮官の確かの手腕もあった。写真:産経新聞社

胴上げされる吉田監督。1985年の優勝の裏には、指揮官の確かの手腕もあった。写真:産経新聞社

 2020年シーズンを2位で終えた阪神。連覇を果たした巨人に7.5ゲーム差をつけられ、直接対決でも8勝16敗と全く歯が立たなかった。来季は矢野燿大監督が就任3年目を迎える勝負の年だけに、優勝は至上命題。下馬評が決して高くなかった1985年に初の日本一に輝いた吉田義男監督のチーム作りは参考になるのではないか。

 巨人戦での甲子園バックスクリーン3連発など、打撃ばかりに注目が集まっている1985年の阪神の戦いだが、2度目の登板で人間的な成長をみせた吉田義男監督の手腕は見逃せない。

 2度目の監督就任は突然、表面化した。監督続投が既定方針だった安藤統男がシーズン終了後に辞任。後を引き継いだ吉田はチームの大改革に着手。「フレッシュ・マインド(初心を忘れるな)、ファイティングスピリット(闘志なきものは去れ)、フォア・ザ・チーム(チームプレーに徹せよ)」をチームスローガンに掲げた。チーム一丸となって戦うために意識改革を求め、春季キャンプ地は、ハワイ・マウイ島から高知県安芸市に変更。前年の4位を含め、それまでの10年間でAクラス入りは4度。64年以来、遠ざかっているリーグ優勝を果たすためにも、「(ハワイは)鍛えるというチーム方針にそぐわない」というのが吉田の考えだった。

 キャンプでも妥協はしなかった。全体練習を終えたグラウンドで、「総合ノック」と呼ばれる4か所ノックで内外野手を鍛えた。マイクを握って練習に目を光らせる吉田。球場にはスピーカーを通して「今のは捕れるぞ」「もっと足を使え」という叱咤の声が響いた。
 
 オープン戦の成績は、17試合で7勝7敗3引き分け。シーズン前の順位予想は高くなかったが、そんな中で優勝を予想したのが当時、セ・リーグ事務局長の渋沢良一だった。85年3月、オープン戦視察のため訪れた大阪で、渋沢は旧知のプロ野球担当記者に「今年の阪神は違うよ」と切り出した。いぶかる記者に渋沢は、吉田がセ・リーグの審判に話した言葉を続けた。「今年は走塁で激しいプレーが出ることがあるが、決してラフプレーではないことを理解して欲しい」。多少、激しいプレーに見えてしまっても、チームスローガンに3Fを掲げ、戦う姿勢を植え付けている課程であり、悪意あるプレーではないことは分かって欲しいというわけだった。

 83年から2000年まで事務局長を務めた渋沢は、元読売新聞記者で、運動部記者としてV9時代の巨人などを取材。同紙運動面で65年4月11日付けから始まったプロ野球コラム「SBO」(現BSO)の第一回を執筆した。中日と開幕戦に登板した金田正一が、先頭打者の高木守道に投じた第1球のカーブだけに焦点を当てた記事。今でこそ、選手やベンチの心理状態を描写する手法は記事として定番だが、即応性で勝てないテレビを意識し、画面に映らないバッテリーと打者の心理に迫る画期的なものだった。
 
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