10月6日、プロ野球史上ただ一人の"400勝投手"、金田正一氏が逝去した。享年86歳。享栄高を中退して1950年途中に国鉄スワローズ(現・東京ヤクルト)に入団し、69年に巨人で引退するまでの20年間、球界に君臨した史上最高の投手の一人である。
金田は「アンタッチャブル・レコードの博物館」のような選手だった。通算400勝は言うに及ばず、365完投、298敗、5562.2投球回、4490奪三振、1808与四球、対戦打者22078人はすべて歴代最多。57年8月21日の中日戦で完全試合を達成し、58年には64.1回連続無失点の日本記録を樹立している。
数々の実績を称えて、背番号34は読売ジャイアンツの永久欠番に指定されているが、にもかかわらず、金田に巨人OBの色があまりないのは、やはり国鉄スワローズの"偉大なるワンマン"だったからだろう。
国鉄時代のあだ名は"金田天皇"。2年目の51年から14年連続で20勝を挙げた史上屈指の大エースに逆らえる者は誰もおらず、監督よりも上の存在だったとも言われていたほどだ。 しかし、金田がただのワンマンではないところは、まさに国鉄の屋台骨を支える存在だったことにある。当時の国鉄は史上まれにみる弱小球団で、金田の在籍中Aクラスに入ったのは一度だけ。シーズン得点最下位が6度、3割打者は15年間でたった2人のみという貧打線に加え、金田を除くと2ケタ勝利投手が一人もいないシーズンが4度もあるなど、投打にわたって深刻な人材不足に悩まされ続けた。勝つためには金田が投げまくるしかなく、国鉄が15年間で挙げた833勝のうち、実に42%にあたる353勝を一人で挙げている。
さらに、金田の活躍はピッチングだけにとどまらない。バットを持っては投手歴代1位の通算38本塁打、サヨナラ本塁打も二度記録。通算で108回も代打に起用され、出場機会の限られる投手では稀な通算1000試合出場を達成している。
特筆すべきは53年で、128打席に立って打率.275、OPS.735は100打席以上の選手では野手を含めたチーム2位と、まさに打者顔負けの数字を残した。リーグ最多の24完投、303.2イニングを投げ抜きながらこれだけの成績を挙げたのだから、天皇と呼ばれるのも無理からぬことである。
金田は「アンタッチャブル・レコードの博物館」のような選手だった。通算400勝は言うに及ばず、365完投、298敗、5562.2投球回、4490奪三振、1808与四球、対戦打者22078人はすべて歴代最多。57年8月21日の中日戦で完全試合を達成し、58年には64.1回連続無失点の日本記録を樹立している。
数々の実績を称えて、背番号34は読売ジャイアンツの永久欠番に指定されているが、にもかかわらず、金田に巨人OBの色があまりないのは、やはり国鉄スワローズの"偉大なるワンマン"だったからだろう。
国鉄時代のあだ名は"金田天皇"。2年目の51年から14年連続で20勝を挙げた史上屈指の大エースに逆らえる者は誰もおらず、監督よりも上の存在だったとも言われていたほどだ。 しかし、金田がただのワンマンではないところは、まさに国鉄の屋台骨を支える存在だったことにある。当時の国鉄は史上まれにみる弱小球団で、金田の在籍中Aクラスに入ったのは一度だけ。シーズン得点最下位が6度、3割打者は15年間でたった2人のみという貧打線に加え、金田を除くと2ケタ勝利投手が一人もいないシーズンが4度もあるなど、投打にわたって深刻な人材不足に悩まされ続けた。勝つためには金田が投げまくるしかなく、国鉄が15年間で挙げた833勝のうち、実に42%にあたる353勝を一人で挙げている。
さらに、金田の活躍はピッチングだけにとどまらない。バットを持っては投手歴代1位の通算38本塁打、サヨナラ本塁打も二度記録。通算で108回も代打に起用され、出場機会の限られる投手では稀な通算1000試合出場を達成している。
特筆すべきは53年で、128打席に立って打率.275、OPS.735は100打席以上の選手では野手を含めたチーム2位と、まさに打者顔負けの数字を残した。リーグ最多の24完投、303.2イニングを投げ抜きながらこれだけの成績を挙げたのだから、天皇と呼ばれるのも無理からぬことである。