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プロ野球

“未完の天才”高橋由伸、“幻のミスター・タイガース”濱中治――プロ3年間で3度長期離脱の石川昂弥に重なる悲運の強打者たち<SLUGGER>

SLUGGER編集部

2022.06.06

ポテンシャルは名球会級だった高橋だが、故障に泣いてその才能を十全に発揮することができなかった。写真:産経新聞社

ポテンシャルは名球会級だった高橋だが、故障に泣いてその才能を十全に発揮することができなかった。写真:産経新聞社

 5月29日のオリックス戦で走塁中に負傷した中日の石川昂弥が、31日になって左ヒザ前十字靱帯不全損傷の診断を受け、長期離脱を余儀なくされた。

 大砲として期待されながらも、ルーキーイヤーから離脱を繰り返す石川に対して立浪和義監督が思わず「いくら才能があっても怪我してしまうと試合に出られない」と苦言を呈したが、実際に故障で才能を十全に発揮できずに終えた選手は少なくない。ここでは、そんな悲運のスラッガーたちを紹介しよう。

▼高橋由伸(元巨人)
 故障に泣いたスラッガーと聞いて、まず思い出されるのがこの高橋。何しろ、30代後半になっても“未完の天才”という呼称がつきまとっていたほどだ。

 慶応大では通算23本塁打を放ち、東京六大学史上最多記録を29年ぶりに更新した高橋は、1997年ドラフトの最大の注目株となった。当時は逆指名制度が存在していたため、実に9球団が争奪戦を展開。そのなかで高橋が選んだのは巨人だった。

 期待に違わず、高橋はプロ1年目から打率.300、19本塁打を記録するなど活躍。打撃だけでなく、俊足や強肩も備えたトータルプレーヤーぶりも魅力だった。だが、その身体能力の高さが諸刃の剣となった。

 2年目は34本塁打でタイトル争いに食い込んだが、9月に右翼フェンスに激突して鎖骨骨折の重傷。このようなハッスルプレーは高橋の魅力でもあったが、その代償で毎年のように故障が頻発した。05年と06年は腰痛を発症してシーズンの半分近くを棒に振り、09年は1打席に立っただけでほぼ全休と常に怪我との戦いが続いた。

 30代後半を迎えると、出場機会は徐々に減少。それでもシーズンOPSはコンスタントに.800を超えるなど、卓越した打撃技術に衰えはなかったが、15年のシーズン終了後、原辰徳監督の勇退に伴って監督就任を要請され、ユニホームを脱いだ。

 18年のプロ生活で、130試合以上に出場したのは4度のみ。それでも通算1753安打、321本塁打と立派な成績を残したのはさすがだが、もう少し健康だったら名球会入りも確実だったはずで、かえすがえすも故障の多さが惜しまれる。
 
▼石井浩郎(元近鉄ほか)
 石井のプロ野球人生は、病院のベッドの上で始まった。早大、プリンスホテルを経て89年のドラフト3位で近鉄に入団した後、キャンプ直前の健康診断で急性肝炎にかかっていることが発覚。1か月も寝たきりで療養せざるを得なかった。この最初のつまずきは、後の石井の運命を暗示していたのかもしれない。

 病気さえ除けば、石井のキャリアの船出は順調そのものだった。社会人時代に日本代表の4番を打った強打者ぶりを存分に発揮し、1年目はわずか86試合で22本塁打を放って新人王を受賞。そこから5年連続で20本塁打をクリアし、「いてまえ打線」の4番としての地位を確立した。30歳となった94年には、全130試合に出場して打率.316、33本塁打、リーグ最多の111打点と自己最高の成績を残した。

 だが、翌年から石井の運命は暗転する。95年5月、当初は捻挫と診断された右足の怪我が、実は骨折だったことが判明。にもかかわらず、「4番打者としての連続スタメン出場記録」の更新が目前だったためにチームは欠場を許さず、石井は6月上旬まで先発出場して1打席だけで交代することを繰り返した。記録更新を機に戦列から離れ、この年はわずか47試合の出場にとどまった。

 さらに、不幸はこれだけでは終わらなかった。翌年は開幕2試合目に左手を骨折してほぼ全休すると、オフにはトレードで巨人へ放出。新天地では層の厚さに阻まれてあまり出場機会は得られず、2000年に今度はロッテへトレードされてしまう。

 ここでも再び左手を骨折するなど故障に泣き、最後は坐骨神経痛がとどめとなって、横浜(現DeNA)にいた02年に引退を決断する。プロ最初の5年間で127本も放ったホームランは、その後8年間で32本しか上積みできなかった。
 
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