私がメジャーリーグをはじめて取材したのは、忘れもしない1983年の秋だった。
巨人の監督を解任されて3年目の長嶋茂雄氏が浪人中でMLBを見学しているはずだから、アメリカなら捕まるだろう。「独占インタビューを取ってこい!」と、今思えば無謀としか思えない企画を、当時絶頂期だった小学館の若者雑誌『GORO』の編集長から命じられた。右も左も分からないどころか、アメリカへ行くのも初めてだった小生は、31歳という若さに任せ、同い年でやはりアメリカ初体験の編集者と連れだってニューヨークへ飛んだのだった。
そこでまず、アスレティックスとデイゲームを行っているヤンキースのホームスタジアムを訪れたのだが、まずビックリしたのは日本からやってきたフリーランスの雑誌記者だと言うのに、書類にサインさせられただけですんなり取材許可が下りたことだった。
その後の野茂英雄や長谷川滋利の取材ではそれほど簡単にことは運ばず、事前の取材申請が必要となったが、それでもMLB各球団は日本のプロ野球界よりもよほどフリーランスのスポーツライターに対して寛容で、常にウェルカムの態度で迎えてくれた。自由に取材させてくれたという好印象が、今も小生の心に残っている。
大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希(いずれもドジャース)をはじめ、多くの日本人がメジャーに加わるようになった現在は、そうそう自由に取材させてくれるわけではないというし、テレビで見る限り報道陣は共同会見以外で選手に近づく機会はそうそうないようだ。
だが、88年に星野仙一監督率いる中日がフロリダのドジャータウンのキャンプに参加した時、小生はドジャースから直接取材許可をもらった。そのため、日本から来た大勢の日本の取材陣は、中日の設置したロープより内側に入ることができなかったのに、ドジャースの取材許可証を胸にぶら下げていた小生はドジャースの選手やコーチの近くはもちろん、ドラゴンズの選手やコーチの近くにも接近することができたのだった。
この時はさすがに旧知の星野監督が近寄ってきて、「いくらドジャースの取材証を持っていても、誰がどう見ても日本人の顔なんだから、少しは遠慮しろよ」と言われ、その指示に「少しは」従うことにしたのだった。
巨人の監督を解任されて3年目の長嶋茂雄氏が浪人中でMLBを見学しているはずだから、アメリカなら捕まるだろう。「独占インタビューを取ってこい!」と、今思えば無謀としか思えない企画を、当時絶頂期だった小学館の若者雑誌『GORO』の編集長から命じられた。右も左も分からないどころか、アメリカへ行くのも初めてだった小生は、31歳という若さに任せ、同い年でやはりアメリカ初体験の編集者と連れだってニューヨークへ飛んだのだった。
そこでまず、アスレティックスとデイゲームを行っているヤンキースのホームスタジアムを訪れたのだが、まずビックリしたのは日本からやってきたフリーランスの雑誌記者だと言うのに、書類にサインさせられただけですんなり取材許可が下りたことだった。
その後の野茂英雄や長谷川滋利の取材ではそれほど簡単にことは運ばず、事前の取材申請が必要となったが、それでもMLB各球団は日本のプロ野球界よりもよほどフリーランスのスポーツライターに対して寛容で、常にウェルカムの態度で迎えてくれた。自由に取材させてくれたという好印象が、今も小生の心に残っている。
大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希(いずれもドジャース)をはじめ、多くの日本人がメジャーに加わるようになった現在は、そうそう自由に取材させてくれるわけではないというし、テレビで見る限り報道陣は共同会見以外で選手に近づく機会はそうそうないようだ。
だが、88年に星野仙一監督率いる中日がフロリダのドジャータウンのキャンプに参加した時、小生はドジャースから直接取材許可をもらった。そのため、日本から来た大勢の日本の取材陣は、中日の設置したロープより内側に入ることができなかったのに、ドジャースの取材許可証を胸にぶら下げていた小生はドジャースの選手やコーチの近くはもちろん、ドラゴンズの選手やコーチの近くにも接近することができたのだった。
この時はさすがに旧知の星野監督が近寄ってきて、「いくらドジャースの取材証を持っていても、誰がどう見ても日本人の顔なんだから、少しは遠慮しろよ」と言われ、その指示に「少しは」従うことにしたのだった。