プロ野球

【インタビュー】山﨑康晃/前編「高校卒業の時、僕は本当に野球をやめようと思っていた」

2020.01.30

日本を代表するクローザーとなった山﨑が、自身の生い立ちや決断に悩むすべての人へ熱いメッセージを届けてくれた。 写真:茂木あきら(THE DIGEST編集部)

 2020年に開催される東京五輪。本連載では、オリンピックでの活躍が期待される注目選手の生い立ちや夢舞台への想いに迫る。

 第1回目は、ハマの守護神から日本の守護神へと成長を遂げた、横浜DeNAベイスターズの山﨑康晃投手が登場。

 高校時代、一度は野球をあきらめかけた彼がいかに侍ジャパンの守護神にまで上り詰めたのか。


 前編では、憧れの帝京高校での3年間と挫折について語ってもらった。キーワードは「強い意志」と「素直な心」だ。
 

――まず、帝京高校に入学した経緯を改めて教えてください。

 僕の野球人生を大きく動かした人が森本稀哲さんです(注:帝京高校から1998年ドラフト4位で日本ハムに入団し、ゴールデン・グラブを3度受賞した好守の外野手として名を馳せた)。森本さんとは小さい頃から親同士が本当に仲が良くて、すべてはそこから始まりました。縦縞のユニフォームに憧れ、実際にそのユニフォームが着られるとなった時は、本当に「願いは叶うんだな」と感動しましたね。僕には手が届かないものだと思っていたんです。

 単願で進路を決めていたので、学校の先生やお母さんにも心配されました。でも、本当に帝京高校で野球をやりたくて、ベンチでも必ず3年間やり続けたいという気持ちでした。その気持ちを素直にぶつけていきましたね。


――小さい頃から目標をノートに書くことを習慣としていたそうですね。気持ちをアウトプットして、目標を明確に定めることはどんな意味があるのでしょうか?

 僕は荒川の下町で育ってきて、正直、周りの環境は良くはなかったです。でも、僕には野球で有名になりたいという強い意志がありました。また、稀哲さんがファンにサインを書いている姿を見ているので、僕もサインを求められる選手になりたいと思っていました。


 もちろん、誘惑もありましたし、レールから外れてしまう可能性もありましたが、目標を明確にすることで、自分の進むべき道が分かるようになったと思います。言葉で表現するのは難しいですが、強い気持ちによって心が動き、そして身体が動いていくっていうのは生活面でも野球でも実感しています。
 
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