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プロ野球

特攻で空に散った石丸進一、波間に消えた沢村栄治...戦争で命を落とした野球選手たち

筒居一孝(SLUGGER編集部)

2020.08.15

東京ドームにある『鎮魂の碑』。戦場で亡くなった73人の選手の名前が刻まれている。写真:SLUGGER編集部

東京ドームにある『鎮魂の碑』。戦場で亡くなった73人の選手の名前が刻まれている。写真:SLUGGER編集部

 今夏の甲子園交流試合で勝利を収めた加藤学園の加藤瑠美子校長の父・高野百介も戦場で命を落としたプロ野球選手の一人だ。松本商時代の28年に夏の甲子園で優勝し、立教大を経て38年に南海(現ソフトバンク)へ入団した高野は、4番も務めた強打者だった。だが、同年のシーズン終了後にすぐ徴兵されたため、プロ生活は1年限りで終わった。そして45年4月1日、日米間の協定で安全が保障されていたはずの貨客船・阿波丸に乗船し、シンガポールから日本に帰国する途上で撃沈され、32歳で亡くなった。

 こうして選手が次々に戦場に送られても、プロ野球の興行は続けられていたが、人材不足のしわ寄せを最も顕著に背負ったのが、朝日軍の林安夫である。慢性的な投手不足に苦しむチームで、林は孤軍奮闘。42年には現在もシーズン最多記録となる51先発、541.1イニングとフル回転し、32勝を挙げてチームをAクラスまで導いた。
 
 だが、戦局の悪化に伴って林自身にも召集令状が届く。出征先はやはりフィリピンで、二度と日本へ戻ってくることはなかった。いつ、どこで亡くなったのかもはっきりしないが、鎮魂の碑に刻まれている名前の中には、そういう選手も少なくない。

 若者がどれだけ戦場に倒れても、もはや絶望的な戦況は覆りようがなかった。45年3月、連合国軍が沖縄に迫ると、日本海軍は「全軍特攻」の方針を打ち出す。そうした状況の中、神風特攻隊で命を散らした選手が2人いた。元名古屋軍(現中日)の石丸進一と、元朝日軍の渡辺静である。
 

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