▼4位 小笠原道大
2006年オフ 日本ハム→巨人(4年16億円)
日本ハムの主砲を務め、32本塁打、100打点で二冠王。チームを44年ぶりの日本一へ導き、MVPにも輝いた“北の侍”を、球団史上初の2年連続Bクラスに終わった巨人が4年総額16億円の巨額契約で招聘した。記者会見で、それまでトレードマークだったヒゲを「男のけじめ」と剃り落としてまで臨んだ新天地では、移籍1年目から打率3割&30本塁打と期待に応え、5年ぶりのリーグ優勝に貢献。2年連続でMVPに選ばれ、野手では史上初の両リーグMVPとなった。入団1年目から4年連続打率3割・30本塁打・OPS.900以上をクリアするなど巨人に大きく貢献した後、13年オフに2度目のFA宣言で中日へ移籍した。
▼3位 金本知憲
2002年オフ 広島→阪神(4年12億円)
広島時代も00年に史上7人目のトリプルスリーを達成し、翌年には史上最長の1002打席連続無併殺打を記録するなど、パンチ力と俊足を兼ね備えた好打者だったが、今となってはタテジマのユニフォーム姿の印象が強い。03年に暗黒時代脱却の目玉として阪神へ移籍した加入した金本は、入団1年目からリーグ優勝に貢献し、ダイエーとの日本シリーズでは4本塁打と大暴れ。翌年以降も不動の4番として活躍し、05年はリーグトップのOPS1.044、同2位の40本塁打で再びリーグ優勝に貢献し、MVPに輝いた。世界記録の1492試合連続フルイニング出場を達成したのも阪神。球団の顔として12年まで活躍し、16~18年は監督も務めた。
▼2位 谷繁元信
2001年オフ 横浜→中日(4年12億円)
98年には横浜を38年ぶりの日本一へ導いた強肩強打の正捕手が、メジャーリーグを目指して01年オフにFA宣言。実際にヤンキースやドジャースなど7球団が獲得に動いたが条件面で折り合わず、最終的に選んだのは中日だった。その後は正捕手として吉見一起やチェン・ウェイン、浅尾拓也らの好投を引き出し、中日は谷繁の入団1年目から11年連続Aクラス、この間4度のリーグ優勝を達成するなど、球団史上最高の黄金期を謳歌。当時の落合博満監督が「一番いなくなったら困る選手」と語るほど、谷繁の存在感は大きかった。15年に引退するまで史上最多の通算3021試合に出場したが、このうち半分以上にあたる1604試合は中日で記録したもの。14~15年には選手兼任監督も務めた。
2006年オフ 日本ハム→巨人(4年16億円)
日本ハムの主砲を務め、32本塁打、100打点で二冠王。チームを44年ぶりの日本一へ導き、MVPにも輝いた“北の侍”を、球団史上初の2年連続Bクラスに終わった巨人が4年総額16億円の巨額契約で招聘した。記者会見で、それまでトレードマークだったヒゲを「男のけじめ」と剃り落としてまで臨んだ新天地では、移籍1年目から打率3割&30本塁打と期待に応え、5年ぶりのリーグ優勝に貢献。2年連続でMVPに選ばれ、野手では史上初の両リーグMVPとなった。入団1年目から4年連続打率3割・30本塁打・OPS.900以上をクリアするなど巨人に大きく貢献した後、13年オフに2度目のFA宣言で中日へ移籍した。
▼3位 金本知憲
2002年オフ 広島→阪神(4年12億円)
広島時代も00年に史上7人目のトリプルスリーを達成し、翌年には史上最長の1002打席連続無併殺打を記録するなど、パンチ力と俊足を兼ね備えた好打者だったが、今となってはタテジマのユニフォーム姿の印象が強い。03年に暗黒時代脱却の目玉として阪神へ移籍した加入した金本は、入団1年目からリーグ優勝に貢献し、ダイエーとの日本シリーズでは4本塁打と大暴れ。翌年以降も不動の4番として活躍し、05年はリーグトップのOPS1.044、同2位の40本塁打で再びリーグ優勝に貢献し、MVPに輝いた。世界記録の1492試合連続フルイニング出場を達成したのも阪神。球団の顔として12年まで活躍し、16~18年は監督も務めた。
▼2位 谷繁元信
2001年オフ 横浜→中日(4年12億円)
98年には横浜を38年ぶりの日本一へ導いた強肩強打の正捕手が、メジャーリーグを目指して01年オフにFA宣言。実際にヤンキースやドジャースなど7球団が獲得に動いたが条件面で折り合わず、最終的に選んだのは中日だった。その後は正捕手として吉見一起やチェン・ウェイン、浅尾拓也らの好投を引き出し、中日は谷繁の入団1年目から11年連続Aクラス、この間4度のリーグ優勝を達成するなど、球団史上最高の黄金期を謳歌。当時の落合博満監督が「一番いなくなったら困る選手」と語るほど、谷繁の存在感は大きかった。15年に引退するまで史上最多の通算3021試合に出場したが、このうち半分以上にあたる1604試合は中日で記録したもの。14~15年には選手兼任監督も務めた。