<近鉄>拾い物がMVPにまで成長
6月29日から近鉄の一軍戦に出場したブライアントは、誰も予想しなかった大活躍を演じる。8月に月間13本塁打を放つなど、74試合に出ただけで打率.307、リーグ4位の34本塁打、長打率.719でPV34.1はリーグ3位。近鉄が最後まで西武と優勝争いをした立役者の一人になった。デービスのPVは86年の34.2から87年は17.5へ半減しており、88年も0.5と明らかに下降線をたどっていたから、近鉄としてはデービスの逮捕とブライアントの加入は、まさしく「災い転じて福」だった。
翌89年もブライアントは49本塁打、121打点で二冠王となっただけでなく、優勝のかかった対西武のダブルヘッダーで4打数連続本塁打の離れ業を演じた。ブライアントの活躍で近鉄は9年ぶりのリーグ優勝。PV40.2はエースの阿波野秀幸を0.4ポイント上回ってリーグ1位で、優勝の原動力としてMVPも受賞した。
その後もホームランを量産し、東京ドームの天井スピーカーを直撃する超特大の“認定ホームラン”をかっ飛ばしたこともあった。93年に新記録の204三振を喫するなど粗さも規格外だったが、同年は42本塁打、107打点で二冠王、PV11.9。翌94年も35本で3度目の本塁打王となり、PVは13.7だった。近鉄での8年間で通算259本塁打を放ち、PV125.6は球団史上8位である。
ブライアントの「三振かホームラン」という打撃スタイルは力勝負を好むパ・リーグ向きであり、近鉄の豪快なチームカラーにも合っていた。不調だった時期に、仰木彬監督から「ホームランバッターなんだからいくら三振しようと構わない」と言われた、と本人も言っていたように、星野政権下の中日で本来の実力を発揮できたかどうかは疑問もある。いずれにしても、近鉄移籍によってブライアントのキャリアが一変したことは間違いない。
6月29日から近鉄の一軍戦に出場したブライアントは、誰も予想しなかった大活躍を演じる。8月に月間13本塁打を放つなど、74試合に出ただけで打率.307、リーグ4位の34本塁打、長打率.719でPV34.1はリーグ3位。近鉄が最後まで西武と優勝争いをした立役者の一人になった。デービスのPVは86年の34.2から87年は17.5へ半減しており、88年も0.5と明らかに下降線をたどっていたから、近鉄としてはデービスの逮捕とブライアントの加入は、まさしく「災い転じて福」だった。
翌89年もブライアントは49本塁打、121打点で二冠王となっただけでなく、優勝のかかった対西武のダブルヘッダーで4打数連続本塁打の離れ業を演じた。ブライアントの活躍で近鉄は9年ぶりのリーグ優勝。PV40.2はエースの阿波野秀幸を0.4ポイント上回ってリーグ1位で、優勝の原動力としてMVPも受賞した。
その後もホームランを量産し、東京ドームの天井スピーカーを直撃する超特大の“認定ホームラン”をかっ飛ばしたこともあった。93年に新記録の204三振を喫するなど粗さも規格外だったが、同年は42本塁打、107打点で二冠王、PV11.9。翌94年も35本で3度目の本塁打王となり、PVは13.7だった。近鉄での8年間で通算259本塁打を放ち、PV125.6は球団史上8位である。
ブライアントの「三振かホームラン」という打撃スタイルは力勝負を好むパ・リーグ向きであり、近鉄の豪快なチームカラーにも合っていた。不調だった時期に、仰木彬監督から「ホームランバッターなんだからいくら三振しようと構わない」と言われた、と本人も言っていたように、星野政権下の中日で本来の実力を発揮できたかどうかは疑問もある。いずれにしても、近鉄移籍によってブライアントのキャリアが一変したことは間違いない。