逸話には事欠かない。174センチの小さな体で打者に向かっていく気迫のこもった投球。外国人選手との対戦で乱闘騒ぎになったこともある。巨人時代には、契約更改の席上、1軍での登板機会を求めて他球団への移籍を直訴したことも。巨人の元球団代表で、野球史家の山室寛之氏は「ホップするストレートが忘れられない。(契約更改での主張は)選手はみんな個人事業主だから、主張するのは当然」と当時を懐かしく振り返る。入来を再評価したのは、横浜で打撃投手を務めていた頃。巨人のOB会で再会した時の立ち居振る舞いを見て「ずいぶんと丸くなったな」と驚いたという。
丸くなったのは、体だけではない。それには、訳があった。2008年に入団した横浜では、3試合に登板しただけでオフに戦力外通告を受けた。「野球界で仕事がしたい。なにか球団で仕事はないですか」と、毎日のように球団編成担当の浅利光博さんに電話をかけて就活をしている時だった。桑田さんに頼まれ、野球教室を手伝った。終了後、「桑田真澄」と書かれた白い封筒を手渡された。「これで1か月、生活できるか」。戦力外通告を受けた後輩に対し、生活に困らないように考えてくれたアルバイトだった。お金以上に、働いた対価として受け取りやすいように考えてくれた先輩の心遣いがうれしかった。あふれる涙で顔をくしゃくしゃにして封筒を受け取った入来に、桑田さんは「とにかく謙虚でいるんだぞ」と声をかけてくれた。いつもはソフトで、はんなりとした口調の桑田さんだが、珍しく諭すような口調だったという。
「『謙虚』とはなんだろう。よく使われる言葉だが、いろんな意味があるはず」。辞書やネットで調べ、自分の中に落とし込んだ。
「桑田さんは、僕の生きざまを、それまで黙って見ていらっしゃったのでしょうね」。振り返ってみれば、プロ生活12年間、実力だけが通用する結果がすべての世界に生きて、「自分が(結果を残して)稼ぐことで精いっぱいだった」。将来、コーチや職員として残ろうと球団幹部らにおもねることもなかった。これから始まる野球のない人生。そんな真っすぐな生き方では、世の中で生き残れないことを教えてくれた金言だった。年末に届いた打撃投手での雇用は、喜んで受け入れることが出来た。巨人のドラ1や過去の実績など、プライドはなかった。採用にあたり「キレたらダメだぞ。すぐに解雇だ」という浅利さんの心配は杞憂だった。
丸くなったのは、体だけではない。それには、訳があった。2008年に入団した横浜では、3試合に登板しただけでオフに戦力外通告を受けた。「野球界で仕事がしたい。なにか球団で仕事はないですか」と、毎日のように球団編成担当の浅利光博さんに電話をかけて就活をしている時だった。桑田さんに頼まれ、野球教室を手伝った。終了後、「桑田真澄」と書かれた白い封筒を手渡された。「これで1か月、生活できるか」。戦力外通告を受けた後輩に対し、生活に困らないように考えてくれたアルバイトだった。お金以上に、働いた対価として受け取りやすいように考えてくれた先輩の心遣いがうれしかった。あふれる涙で顔をくしゃくしゃにして封筒を受け取った入来に、桑田さんは「とにかく謙虚でいるんだぞ」と声をかけてくれた。いつもはソフトで、はんなりとした口調の桑田さんだが、珍しく諭すような口調だったという。
「『謙虚』とはなんだろう。よく使われる言葉だが、いろんな意味があるはず」。辞書やネットで調べ、自分の中に落とし込んだ。
「桑田さんは、僕の生きざまを、それまで黙って見ていらっしゃったのでしょうね」。振り返ってみれば、プロ生活12年間、実力だけが通用する結果がすべての世界に生きて、「自分が(結果を残して)稼ぐことで精いっぱいだった」。将来、コーチや職員として残ろうと球団幹部らにおもねることもなかった。これから始まる野球のない人生。そんな真っすぐな生き方では、世の中で生き残れないことを教えてくれた金言だった。年末に届いた打撃投手での雇用は、喜んで受け入れることが出来た。巨人のドラ1や過去の実績など、プライドはなかった。採用にあたり「キレたらダメだぞ。すぐに解雇だ」という浅利さんの心配は杞憂だった。